宇宙のことが心配です

好きに色んなことを書きます。日記が中心です。本、映画、漫画、アニメなどで暇を潰す事が多いので、その手の感想も書くかもしれません。

映画「ガタカ」の感想

映画「ガタカ」を見た。95/100点

<あらすじ>

遺伝子操作により、可能な限りベストな状態で生まれてくることができるようになった時代の話。

遺伝子操作により生まれてきたものが多くを占める社会で、主人公ヴィンセントは通常の手順を経て生まれた人間だった。

社会的にも肉体的にも不利な状況で、ヴィンセントは宇宙人飛行士になる夢をあきらめられずにいた。

ヴィンセントは遺伝子操作により生まれた優秀な人間であるジェロームという男を装い、宇宙局ガタカに潜入する。

ある日、ヴィンセントは、念願であった宇宙船乗組員として選ばれるが・・・

<感想>

有名な映画で、興味があったのだが、実際見てみたところやっぱり面白かった。

物語はヴィンセントが宇宙人飛行士として選ばれるところから始まる。いきなり選ばれたところから始まるので、それがどういうことなのかこの時点では分からないが、物語が進み、この社会の現実が見えてくると、段々分かってくる。

始めにヴィンセントの半生が語られるのだが、これがなんとも悲しい。遺伝子操作というのは細かくは分からないが、卵子精子が出会うところで恣意的な操作を行うということらしい。この操作を行うことで、例えば先天的に病気を持って生まれることなどはあらかじめ排除できる。また、身長や脳みその出来などまで操作でき、つまり可能な限り最高の状態で生まれるようにできるわけだ。映画内で医者がこう言う。「偶然にまかせるのは性格だけにしておけ。」

もし、そうであればまともな人であれば、遺伝子操作を行うことになるだろう。しかし、ヴィンセントの両親は、そのような操作を行うことを嫌悪し、自然に任せて子供を作ることにする。

ヴィンセントが生まれた時、母親が感極まってこう言う。

「この子は必ず何かをするわ。

でも、ある日、ヴィンセントがある程度大人になってきて、宇宙飛行士になりたいと考えていると、母が今度はこう言う。

「なれるわけないわ」

(宇宙飛行士には遺伝子操作によりもともと優れている人間しかなれる見込みがない)

この辺り、結局科学に従った方が良いに決まっているという現実がすごい伝わってきて、グッときた。

この段階でもすでにけっこう話に引き込まれるのだが、ここからさらに、面白くなっていく。ヴィンセントが、遺伝子的に不利な中で、宇宙飛行士への夢を捨てきれず、不利に抗ってゆく。最後にこう言うシーンは感動する。

「覚えておいてくれ。僕はほんとうに誰にも負けたことがなかった。」

ほんとに今までみたなかでもかなり面白い映画だった。

映画「ワールズエンド酔っ払いは世界を救う!」の感想

映画「ワールズエンド酔っ払いは世界を救う!」を見たので、その感想を書いていこうと思う。85/100点

<あらすじ>

大人になりきれていない男ゲイリーは、4人の幼馴染に会いに行き、学生時代に達成できなかった「5人で一晩にパブ12軒を回る」に再挑戦しようと口説いて回る。

5人は故郷の街に戻って、パブ回りを始めるが・・・街は宇宙人に支配されていた!

<感想>

あらすじを見ただけで、なんかワクワクしてきたので、いつかみようと思っていた作品。けっこう期待が高まってしまっていたので、これは良くないかなと思ったが、それでも面白かった。エドガーライト、サイモンペッグ、ニックフロストの映画は「ショーンオブザデッド」「ホットファズ」「宇宙人ポール」くらいは見ていたが、その中でも1番面白かった気がする。

物語の終わり方は可もなく不可もなく、まあこんなものかという感じだったのだが、そこまでの話はほんとに楽しかった。始めは昔の仲間で飲もうという普通のコメディドラマっぽく始まる。あらすじを読んでない人から見れば、このあと普通にパブ周りして、その中で色んなことがあって、「俺たち、変わったなあ」とか言い合ったりして、ちょっと感動的だったりするんだろうなという印象を持つだろう。宇宙人という単語をあらすじで目にした身からすれば、この辺りは妙に真面目にやってるように見えて、面白かった。

実際、フリとかではなく、そういう昔を懐かしむみたいなちゃんとしたテーマも普通に描こうとしてるみたいだったが、そこが逆にツボではあった。というか、この 映画、テーマはてんこ盛りだ。時の流れとか、アルコール中毒とか、生きていくことについてとか、そんな真面目な話が、ちょいちょい出てくる。さらに、宇宙人との戦闘というアクションも盛りだくさんにある。とにかく映画らしい要素がごちゃごちゃと詰め込まれている映画で、映画好きな人が作ってんなこれ、という感じがいい感じで伝わってくる。

個人的には中盤>序盤>終盤で面白かった。だんだん酔っ払ってくのもアホらしくていい。とにかく、面白かった。

映画「ある日どこかで」の感想

映画「ある日どこかで」を見た。75/100点

昔、どこかのWEBサイトに、カルト映画のくくりで、この映画が挙げられてるのを見て、何となく気になっていた。

<あらすじ>

脚本家?の男が、一昔前の女優の写真を見て心奪われ、タイムスリップして彼女に会いにいく。

<感想>

結論を言えば、あまりカルトっぽくはなかった。カルトというと、万人受けはしないが面白い人には面白いというイメージがあるが、そういう意味では思ってたのとは違っていた。少し癖のある変な映画を内心期待してたので、意外に普通だなという印象に最後は落ち着いた。といっても、カルトにくくられるわけが全く理解できないこともない。変わった映画ではあると思う。

本作では、タイムスリップに機械などのそれっぽい小道具は使用しない。瞑想だけで時を超えてゆく。これはけっこう無理やりな気がしたが、個人的には、機械を使用していたとしてもタイムスリップ自体に別に納得はできないたちなので、そこはまあどっちでもよかった。ああ、タイムスリップしたんだ、と物語に従順な態度で見ていった。

始めにおばあさんが出てきて、主人公に話しかける。主人公からみれば初対面だが、おばあさんにとって彼は昔の恋人というわけだ。そんなバックトゥザ・フューチャー的な仕掛けもあったりする。

SFと恋愛がからむということは別に珍しくはないけど、この映画は恋愛が妙に古風なので、そこは珍しい気がした。この映画にSFという言葉を用いるのにもちょっと違和感があって、だから変わった映画だなという気はする。

個人的にはあんまり古典的なムードが漂う恋愛映画に刺激を感じないたちなので、点数はちょっと低くなってしまった。

映画「脳内ニューヨーク」の感想

映画「脳内ニューヨーク」を見た。100/100点

チャーリーカウフマンの初監督作品で、この人の作品が好きなので、前から見たいと目を付けていた。

<あらすじ>

ケイデンはニューヨークの劇作家。

原因不明の病気を宣告され、嫁と娘には逃げられる散々な人生を送っている。

そんな中、彼は舞台で天才賞を受賞する。

大金と名誉を手にいれた彼は、ニューヨーク自体を再現するという誰も見たことのない大規模な舞台を上演することを思いつくが・・・。

<感想>

チャーリーカウフマンの映画の中でもこの映画はかなり面白かった。それどころか今まで観た中でベスト10に入ると思う。この映画を知らなかったことが残念なほどだ。ただ、引き目で見るとこの映画は万人受けしないと思うので、100点であることはあまり参考にしない方が良いかもしれない。

話は結構ややこしい。人が結構出てくる上に、年を取っていくので誰が誰かもわかりにくい。ちゃんと筋を追っていくためには人の名前をしっかり覚えておかないといけない。わたしも始めとりあえず一回見たのだが、よくわからない所が多かった。そこで何回か巻き戻して見直した。それで初めて話の筋は分かった。

話がややこしくなるのは、ケイデンがニューヨークを再現する舞台を作り始めるところからだ。もっというと、ケイデンとその相方ヘイゼルが、自分自身を役者に演じさせるところからだ。つまり、舞台上で舞台を作成していく様子が描かれるということになる。劇中劇中劇というわけだ。ここからこの状況を楽しむかのようにややこしい場面が続く。例えば、ケイデン役の男がヘイゼルに恋をしてしまった時、ケイデンがこう言う。「おまえ、俺を演じているのなら、ヘイゼル役の方に恋をするべきだろう!」(現実のケイデンはヘイゼルに恋愛感情を持っている)また、ヘイゼル役の女がケイデンに「ヘイゼルだったらこう感じるはずだ」と舞台について意見を言うのだが、それに対して、ヘイゼルが「いや、わたしはそんなこと感じていない!」と言ったり。・・・書いていてもあまり意味が分からないが、まあこんなややこしい話が続くのだ。ケイデン役の男を演じる男が出てきてしまう場面すらある。

途中までみたところで、この話どうなるのかと思う訳であるが、話は予想もできない方向へ流れていく。滅茶苦茶な話かと思いきや、ちゃんと含みを持って、良い話になっていく。最後は、残酷さとユーモアを掛け合わせたような面白い終わり方をする。見終わった後で思ったのは、よくこんな話思いつくなという感想。ほんとにすごいと思った。センスにあふれている。

映画「ロッキー」の感想

映画「ロッキー」を見た。85/100点

結構前に、シルベスター・スタローンの「ランボー」を見て、やっぱり名の通っている映画って面白いということに改めて気づかされ、自分の中で今度は「ロッキー」を見ようということになった。「ロッキー2」「ロッキー3」などの次回作はともかく、シリーズ作品の1だけは見て損はない。そんな基準でTSUTAYAでDVDを選んでいると、まだまだ見ていない名作があるということに気づく。それらの作品は追々見ていくこととしよう。

<あらすじ>

三流ボクサーロッキー・バルボアは本業のボクシングだけでは生活できず、借金の取り立て人を請け負いながら自堕落な生活に甘んじていた。センスはあるのにもかかわらず、そんな生活をしているロッキーにボクシングジムのトレーナにも追い出されてしまう。

そんなある日、ボクシングチャンピオンのアポロ・クリードの対戦相手として無名のロッキーが選ばれる。ロッキーはそこから過酷な練習をこなして、試合に臨むことになるが・・・

<感想>

面白い。

自堕落な人生に甘んじているロッキーが、試合で勝つという目標に向かって過酷な練習にも耐え抜く様は見ていて気持ちがいい。ラストの試合の場面では結末はどうなるのだろうと映画に惹きつけられる。ロッキーという人間は落ちぶれた人間であるとはいえ、(トレーナーに「負け犬の人生だよ!」と言われてしまうシーンはグッとくるものがある)まともに現実を生きている人間だって、夢なんて見ていられないという思いを抱くという意味で夢に破れた存在で、だからどうしたって夢へ向かって努力を始めるロッキーの姿に自分を重ねてしまうことになる。

この話はロッキーが幸運であるというところから始まるのがリアルでいい。チャンピオンと闘うというビッグチャンスが転がり込んできたからこその過酷な努力であって、これくらいのことがなければロッキーは決して自分を変える事はできないだろうと思わせるくらいの現実的な感覚がこの作品にはある。そこがいい。嘘がないから、現実を知ってひねくれたような人間ですら感動させるちからを持っている。

ロッキーはそもそも幸運だったがゆえに、この作品から努力する意味が感じられるとは思わないが、アメリカンドリームをテーマとした傑作映画だと思う。本当に面白かった。

本「百年の孤独」の感想

ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ。

昔、中短編集を読んでから、ガルシア・マルケスって面白いと思っていた。それからいくつか短編集は読んで、いつか名作と言われている「百年の孤独」を読みたいと思っていた。文学ベスト100のような企画で、古典作品を差し置いて、1位になるくらいの評判だ。さぞ面白いだろうと期待が高まっていた。

というわけで実際、読んでみたのだが、やっぱり長い物語だ。登場人物も多く、文章運びも独特なため、精読しないと話がすぐ分からなくなってしまう。そのため、読むのには時間がかかる。途中、何度も挫折しかけたが、何とか読み通せた。終わりになるころにはもう始めの方の話など頭から飛んでしまっていたが。

この物語のすごいのはスケールのでかいことだ。マコンドという村の建設から衰退までが描かれる。村建設時のメンバーであるホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランから始まり、その息子の話や孫の話など、ブエンディア一族の話が語られる。小説は大抵、主人公に主に焦点が置かれるものだが、この小説は一族全体が描かれる。

実は話の中に矛盾がけっこうあるみたいなのだが、全然分からなかった。実際、何かおかしいと思うときがあったが、話を把握するだけでも骨が折れる状態なので、自分の方がなにか勘違いしているのだろうと思ってしまうだけだった。

ガルシア・マルケスの小説ではよくあることなのだが、死者が幽霊となって出てきたり、女が洗濯中に空へ舞い上がり消えてしまったり、チョコレートを食べることで体を浮かせることができる男が現れたりする。それも特に脈絡もなくいきなりそんな不思議な描写が出てきて、当然のように話が進んでいく。そんなことあるわけないと思いはするのだが、特に理由が説明されるということもなく、こんなことが起きましたという体で語られるので、不思議と騒ぎ立てる気にもならない。これが俗に言われている「語りの妙」というやつかもしれない。

ガルシア・マルケスという人は小さいころに、祖母から物語を聞かされて育ったらしい。それが小説家という職業につながっているとのことだ。そういわれてみると、確かにとそんな感じだと納得できるものがあった。少し違うかもしれないが、ちょっと思ったのは、昔話みたいだということ。昔話って、深く考えていくと意味わからないことが多い。例えば、桃太郎はイヌ・サル・キジを連れていくが、よくよく考えるとなんなのその動物?と言いたくなってくる。でも、話は普通に面白い。百年の孤独もそんなのと似ている気がした。大江健三郎の小説で「M/Tと森のフシギの物語」というのがあるが、これも百年の孤独があって、書かれたものだと思う。帯のところに「あったかなかったかは知らねども、昔のことならば無かったこともあったにして聴かねばならぬ。よいか?」という祖母の言葉がピックアップされている。これは百年の孤独にも似合っている言葉だと思った。昔、マコンドという村があったそうな・・・みたいな感じで語られている小説だと思うと、しっくりくるものがあった。

正直言うと、期待していた割に面白くは無かった。ちょっと期待が大きすぎたかもしれない。長いと思ったし。でも、やっぱりこれだけのスケールで物語を書くのはすごいとは思った。なので、まあ今回読んでみて、良かったと思う。

本「愛するということ」の感想

エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んだ。いや、ほんとうを言うとあんまりちゃんと読んでいない。途中の所はかなり流し読みして、ほとんど頭に入っていない。というのも、けっこう始めの辺りからすでに、書いてあることにあまり賛同できていなかった。そのせいで、あまりちゃんと読もうという姿勢がないまま、惰性で読んでしまった。

まず、第一章で、愛は技術であるということが語られる。わたしたちは愛に関心を持ちながらも、それについて学ぶことがあるとはあまり思っていない。このような話から始まる。そこから、第二章「愛の理論」、第三章「愛と現代西洋社会における崩壊」、第四章「愛の習練」と続く。

聖書の引用を基に考察することが多い印象だが、聖書から話を始められると、不信感があって、入り込めなかった。単に話を進めるために聖書が出てきているだけだとしても、どうも駄目だった。

あとはフロイトに対する反論もよく出てきた。これについては、確かにフロイトの言っていることは無理があるように思えたので、納得できた。しかし、フロイトに対して、筆者が展開する理論も、別に理解はできなかった。例えば、父親と母親は子供にとってそれぞれどんな役割があるかなどの理論が展開されるが、どれももっともらしい気はするが、例外もあるんじゃないかという疑いは出てくる。また、こういう男はこんな性格で、だから・・のような話もたくさん出てきて、これは正直、ただの偏見な気がして嫌気がさした。勿論、フロイトの意見よりはまともだとは思うが、これはこれで何の根拠もない。基本的に哲学的な話なので、正しさというよりは考え方の問題なのかもしれないが。

神に対する愛が語られるところは、もはや全く頭に入ってこなかった。ただ、ページを惰性でめくっているだけだった。基本的に神に対する信仰の習慣が無いので、その手の話題は厳しい。

第4章の「愛の習練」では愛の理論を踏まえて愛を習練する方法について語られる。しかし、語られる方法はどれも効果があるのかどうかよくわからないことばかりだ。全然、納得できなかった。

筆者は社会の中の愛について言及して、現在の社会では愛は厳しい立場にあると言っている。というより、読んだ印象ではほとんど無理なような気がしてくる。そして最後には、愛の成立しない社会など崩壊するに決まっているのだから、愛の発達を阻害するような社会の条件は批判していく必要があると言っている。これには納得だが、読み終えた後、もしそうならば、この愛の哲学も所詮今の社会では理想的過ぎて、実現不可能なのでは?と思ってしまった。実際、読んでいるときから、少し思っていたのだ。この本で言っていることは正しいかもしれないが、これを実現するだけの意志が継続できるだろうか?と。でもまあ、できるかもしれないので、そこは難しいところだが。

とにかく、この本にはあまり集中できなかった。というより最近、本に集中できない。読む気がないのに強迫観念に駆られて読んでいるから苦しくもある。ただ、この本を読んで、愛は意志的なものであるという主張が芯を食っているように感じて、考えを改めることにもなったから、良しとしよう。

映画「ブレードランナー」の感想

映画ブレードランナーを見た。

昔、原作である「電気羊はアンドロイドの夢を見るか」を読んで、面白かったので、本映画には興味があった。

本映画に点数を付けるとしたら、75/100点くらいだろうか。

 

<あらすじ>

近未来の話。

地球は環境破壊により、住むべき場所ではなくなっている。そのため、人々の大半は別の星へ移住している。

そして、新たな星の開拓のために、レプリカントが過酷な労働に従事している。

レプリカントというのは精巧に作られたロボット?であり、その最新式であるNexus6型は知能が高く、あまりに精巧なため、ほとんど、人間と区別がつかない。

そのレプリカントが労働を逃れるため、別の星から地球へと逃亡してくる。

主人公デッガードは逃亡してきたレプリカントを討伐することになる。

 

<感想>

原作を読んで、本物と人工的なものの判別がつかなくなってくるところが面白かったのだが、映画ではあまりその面白さは感じられなかった。

例えば、Nexus6型のレプリカントとして、ある女が出てくるのだが、この女は自分がレプリカントだと気づいていない。主人公は判別のため、彼女をテストするのだが、その時も彼女は本気で自分が本物の人間であると主張する。小説ではこのくだりで、読者を騙す仕掛けがあって面白いのだが、映画ではけっこうあっさりしていた。この辺りが、期待してただけに、残念だった。

さらに、小説では、主人公が自分の方が実はレプリカントなのではないかと疑い出すという場面もあったりして、結局本物と人工的なものの境界ってどこにあるんだ?という哲学的な話にもなってくる。これも映画では、感じられなくて残念だった。ただ、じゃあ小説のこれらの要素を映画でも表現できたかといわれると、それも厳しいかなと思うので、仕方がないという感じはした。

面白かったところもある。近未来の街のイメージはよくできていて、いいなと思った。高層ビルが立ち並ぶ都会なんだけど、どこか荒廃しているような近未来のイメージ。この映画はそういうイメージの草分けでもあるらしく、そう思ってみると感慨深いものもあった。ところどころで日本も登場する。日本人の店員が日本語喋ってたり、看板に日本語を崩したような文字が書かれていたりする。街のイメージとして、歌舞伎町を参考にしたらしく、どうやらそのつながりらしい。

こういう見どころはあったので、見て損ってことはなかった。まあ、普通に良かった。けど、原作読んでたので、期待を下回った感は否めない。ので、75点。

あと、もう一つ気になる点。これは考えすぎで、面倒くさい話になる。個人的にロボットなのに感情があるというのが、ちょっと想像しにくい。百歩譲って、感情も脳みそのなんらかの働きだとして、それを再現することができると考えれば、納得できなくもない。だが、そうなると、他の生き物に対する共感というのも再現できてしまいそうな気がしてしまう。(原作では、レプリカントと人間の境界は、共感できるか否かにあるということだった)つまり、感情まで再現できるほど、人間に近づけるのであれば、もう差は完全に無い気がしてしまう。感情を再現できて、それでも人間と違うということがどういうことなのか、想像がうまくできない。そこが、原作も含めて気になってしまうところ。かなりどうでもいいが。

映画「エターナル・サンシャイン」の感想

エターナル・サンシャイン」を見た。おもしろ点数:90/100点

<あらすじ>

ジョエルという男がクレメンタインという女と付きあっている。ある時、喧嘩をしてしまい、衝動的なクレメンタインはジョエルについての記憶を消す手術を受ける。それを知ったジョエルはショックを受け、悩んだ末、自分もクレメンタインの記憶を消すことにする。

<感想>

チャーリーカウフマン脚本の作品で、この人の作品が好きなので、前から見たいと目を付けていた。

まず、ジョエルを演じている男がジムキャリーで、軽く驚いた。パッケージからはジムキャリーだとははっきり分からなくて、見始めてから気づいたのだ。ジムキャリーは明るいキャラクターを演じるイメージなので意外だった。この映画の主人公ジョエルはチャーリーカウフマンよろしく陰鬱な男だ。多分、今まで見たジムキャリーの中で一番暗いんじゃないだろうか。ただ、暗いとは言っても、この映画にジムキャリーは結構似合っていると思う。暗いとは言っても、チャーリーカウフマンの映画はコメディだし、根が優しい雰囲気が似合っていた。

チャーリーカウフマンの映画は大抵、現実と頭の中の世界がごっちゃになってくる。だから途中で訳が分からなくなってくる。この映画もその法則に外れていない。ただ、比較的話は追いやすく、一回見ただけでも大体理解できる。映画の仕掛けとしては、「インセプション」とかに近い。人間の夢や記憶の世界が映像になって流れてくる。だから、現実ではありえないことが突然起きたりする。また、現実世界と夢の世界の話が並行するため、始めはどっちが現実で夢か分からなくなったりする。そこが面白い。よくわからなくて戻ってみると細かいところに伏線が張られているのに気づいて、また面白かったりする。そんなこんなで注意してみていると、すごく話が精緻に練られていることが分かる。ちなみに「脳内ニューヨーク」が特に複雑で面白いと思う。

チャーリーカウフマンらしい分かるようでよく分からないシュールな雰囲気は、この映画でも漂っている。「ハァイ!」「ん?・・・なんか言った?」「・・・ハァイって言っただけ」とか。不自然なような自然なようなよくわからないやり取りだが、この独特さがすごくて、癖になる。チャーリーカウフマンの映画内のキャラクターは下品で適当であほらしいのが多いのだが、それでいて知的な雰囲気があるから不思議だ。下品な言葉すらも全く意味がないわけじゃなくて、どこか意味があるように思わせてくる。

この映画は、嫌な記憶を消していく中で良い記憶も消えていくということにジョエルが気づくところから、また話が盛り上がっていく。感動的な場面もある。盛り上がった後にも話がまた続いて、どうなるのだろうと話を追ってしまう。そんな感じで話がよくできている。とても面白かった。

映画「パンズ・ラビリンス」の感想

パンズラビリンスという映画を見た。おもしろ点数:80/100点

 

<あらすじ>

内戦で仕立て屋の父を亡くした少女オフェリアが、新しい父に会いにいくために妊娠中の母と一緒に旅をしているところから話が始まる。

新しい父との暮らしに苦しみを感じるオフェリアに、おとぎ話の世界への扉が開かれる。オフェリアは現実から逃れるようにして、おとぎ話の世界で王女になるための試練を受けていくが・・・

 

<感想>

監督がギレルモ・デル・トロで、シェイプオブウォーターの人である。シェイプオブウォーターは見たことがないが、友達の母親が見たらしく、それによると気持ち悪い映画らしい。この話を聞いていたので、このパンズラビリンスという映画も気持ち悪い要素はあるだろうと予想していた。

(私にとって気持ち悪いというは悪い要素ではない。寧ろそこに興味が出て、同作品を見たいと思っていた。)

おそらく、不思議の国のアリスオズの魔法使いの気持ち悪いバージョンだろうと思っていた。実際見た結果、この予測は当たっていた。だが、少し違っていた。この違いが自分の気に入らない方向で違っていたので、最終的には同作品があまり好きになれなかった。

つまり、おとぎ話の国へ誘う案内役が気持ちの悪い虫であっても、王女になるための試練で気持ち悪くウエーっとなるのは良いのである。これはジェットコースターが、怖いのが楽しいというのと同じように、楽しいのである。しかし、拷問を代表されるような非人道的な残虐行為が、見ていて嫌だった。(この映画は内戦の最中という設定であり、そのためこのようなシーンが出てくるのだ)これは私が思っていた気持ち悪いとは違っていた。確かに気持ち悪いのだが、こういう気持ち悪さは期待していなかった。私の期待しているのは、デザインの気持ち悪さとかそういう種類のものだ。

現実が理不尽なものであるということのために、これほどの描写が必要なのかと疑問に思った。これでは話が逆に単純になってしまってないかと感じた。また、あまりに執拗に非人道的な場面が続くので、逆に不自然に見えもした。このような残虐行為が実際行われていたのかどうか知らないが、殺人や拷問をここまで冷静にできるものなのだろうか。それとも、戦争中ではあんな精神状態が可能になるのだろうか?(オフェリアの新しい父親はやばい人なのである)

まあ、そんな不満点はあったが、でもおとぎ話系の気持ち悪いものが見たいという願望は満たされて、見ごたえはあったので、80点くらい。

普通の一日

 午前中にアニメを4本見て、夕方に2本見た。アニメは一つ20分くらいで、何個か見てもそんなに時間がかからないのが良いところだ。飽きっぽい自分としては映画一つ見るより、色々なアニメを一本ずつ見た方が気分が変わって良い。最近は虚無感のせいでアニメに集中できずにいたが、こうして真面目に見ることができればどの作品も面白いものだと気づく。やはり集中して見てみるということが楽しむことには不可欠なのだろう。

 時間つぶしに「赤毛のアン」を原文で読んでいる。一度読み始めたら2ページくらい読んでいる。今、一章が終わった所だ。児童文学とはいえ、文章は結構難しい。何が分からないかというと、まずupとかoffとかの前置詞の捉え方が分からない。動詞と合わさって一つの意味になるものはそのまま訳せばいいが、そうならない場合はupとかoffの意味が動詞と関係しているのか単独で意味を持つのかよくわからない。次に、文章が長くなってくると文章の構造がわからない。大抵、途中でカンマが打たれて文節が挿入されるが、それがどういう風に主文と関わっているのかが難しい。また、that's what.とかそういうのが全く分からない。慣用表現だと思うのだが、調べても分からない。分からない所が多いのだが、そこは適当に飛ばして読んでいる。とりあえず男の子を孤児院から引き取ることになって、レイチェルがそれに驚いたってことくらいは分かった。

 空白な時間ができると、自分の仕事探しについて考える。理系職として会社員を目指すことを考えると、面接のことがまず頭に浮かんでくる。失敗すると考えることで実際に失敗するだろうし、それを適当に流すこともできないだろう。入社しても仕事が続くイメージが描けないから、心中で無理だと思いながら、口では志望動機を言うことになるだろう。しかし実際こんな状態でも受かることは不可能ではないだろう。こういう負の心理はきっとみんなが持っているはずでいわば普通の恐怖だからである。わたしの場合はそれが極端なため葛藤も激しくなるが、別に悪いことをしているわけではない。だから面接に耐えていけばきっと受からないわけじゃない。しかし面接など良くも悪くも試験のようなものだ。問題は実際働くことが継続できるかだ。会議とか雑談とか叱責とかそういうことでどんどん苦しくなっていくだろう。そんなことで感情的になっていたらどうしようもないということで感情的になるのだから、どうしようもない。結局、自分には無理だという結論になる。自分で意志決定する仕事は、他人からの叱責恐怖でまともにできなくなる。すると単純作業系の仕事しかない。しかしそこでの人間関係は大丈夫か。それなら本当に自分に耐えられるのか。それができなければもう仕事などできない。考えると苦しくなってくる。しかし考えなければどうにもならない。生きることは苦しいことだ。楽しいから生きていくのであれば自殺してしまう。苦しいから生きていくのだ。

風呂掃除

 アニメとか本で時間をつぶす日々を送っている。やる気はでなくても集中して作品を鑑賞すれば、なんだかんだ面白い。しかし面白いのはそのときだけで、何もしていないとすぐ虚無感に陥ってしまう。それで次回を楽しみにするとまではいかず、毎回気概を立ち上げ、作品を鑑賞している。色々なことをして時間をつぶしていれば虚無感を忘れられるが、休んでいるとすぐ憑りつかれる。だから頭の中をずっと何かで埋めていないといけない。それで神経が疲れてしまう。結局この虚無感が出てくる限りどうにもならないらしい。この感じだと、いつか自殺するかもしれないなと他人ごとのように思った。

 今見ているアニメはどれも面白いが、中でも「ふしぎの海のナディア」が一番面白い。原作が海底二万マイルだということに今更気づいた。作品の雰囲気から元が文学作品という気が全然しなかったから気づかなかった。海底二万マイルがどんな話か分からないが、あまり原作通りではないような気がする。あとOPの曲をなぜか坂井泉水の曲だと思っていた。それも今更違うと気づいた。曲の雰囲気で勝手にそう思ってしまったらしい。

 「ハックルベリー・フィンの冒険」を読み始めた。児童文学だから読みやすいし、それでいて読みごたえもある。19世紀前半が舞台となっているので常識の感覚が全然違うのだが、普通に読める。普通に面白い。

 母に頼まれ、風呂掃除もした。パンツ一丁になり、洗剤を壁に吹きかけ、スポンジでこすった。壁の継ぎ目とか隅っこの方が汚れているので、注意して洗った。やり始めると持ち前の完璧主義が顔を出して、結構しっかりと洗った。汚れが落ちていくのを見ていると少し快感がある。掃除をしながら、自分は清掃の仕事に向いているかもしれないと思った。仕事については色々と考えているのだが、自分の精神状態を想うと、何を考えてもまともな考えになる気がしなくて、そこまで真剣にならない。また考えても、仕事のシミュレーションをすると結局自分には無理に決まっていると思ってしまい、考えが停止する。例えば、前職の経験からエンジニアになることを考えても、会議とか対人関係の苦しさで駄目になるのは間違いないと思ってしまう。引きこもりでもできる仕事を検索しても、それすら自分が働く姿をシミュレーションすると全部無理だという結論になる。中でも一番何とかなりそうなのが清掃の仕事なのだが、その場合仕事の単調さに耐えていけるかという新たな心配が出てくる。それで対人の苦痛か単調さの苦痛かという二つの道の前で悩むことになる。どちらも地獄の道という気がする。どちらへ進んでも地獄からは逃れられない。時には対人の苦痛に向かっていこうと考えるときもある。そんなときは大抵、自分が対人関係の中でどんどんノイローゼを加速させることを忘れてしまっている。それで時にはそのことをふと思い出して、やはり無理だとなり、単調さの苦痛に耐える道が現実的だろうと思う。二つの道の前で考えがふらふら切り替わっている。

 喫茶店でネットサーフィンをしていて、カミュのことを検索した。それでカミュの不条理に対する思想を読んでいて自分の思っていることに少し似ているということに気づいた。この頃わたしは不条理の苦痛に耐えていくことに意味があると考えていて、カミュは不条理を正視する反抗という態度に意味を見出していた。昔、「ペスト」を読んだとき、何となく作品中に示される生き方は一つの答えであるような気はしていた。当時はその生き方はあまりにモラルが高くて超人的にも思えたのだが、今になってみるとニーチェとか他の哲学者の言っていることよりは、人間らしいやり方に思えた。もう一度「ペスト」を読んでみようかと思った。それか「シシューポスの神話」を読もうか。とにかくカミュにまた興味を持った。

「銀の匙」読了

 「銀の匙」を読み終えた。相変わらず集中できるところとそうでないところがあって、全体的にはあまり頭に入ってこなかった。どうもエッセイのような文章が続いていくと、退屈になってしまうようだ。それに文章がきれいで軽やかなのが自分には向いていなかったかなと思う。何故か頭に入ってこなかった。逆に印象に残ったのは後編の始めのところ。主人公の先生に対する態度が特徴的だ。他の生徒は先生が癇癪交じりに怒り出せばびびって静かになってしまうが、主人公は平気で笑っている。ある日、校長が主人公に「先生が怖くないか」と聞くと、主人公は「いいえ、ちっとも」と答える。何故かと聞かれると主人公は「先生だってやっぱり人間だと思うから」と答える。これは主人公の道徳観が優れているということだと思う。主人公は大人の嘘に敏感で、他にも先生に対して素朴な疑問をぶつけたりする。それはどれも正しい難しい疑問で、先生も適当にごまかすしかできない。こういうところを読むと、主人公がはみ出し者で面倒なタイプの人間というのがよくわかる。同時に、感受性が高くて、苦悩の多い人生を送っている事も伝わってくる。主人公は「日本は戦争に負けると思う」なんてことまでみんなに言ってしまう。この場面はちょっと驚いた。戦時中にそんなことを言って大丈夫なのだろうか。とにかく、わたしには主人公の感情的だけど芯の強いその性格が印象的に思えた。わたしは怒られる恐怖がかなり強いタイプで、子供の頃、先生がかなり苦手だった。だから主人公のように先生を一人の人間だと捉えられることは素直に感心した。それと、この主人公は結構楽観的だ。そこも良いなと思った。主人公が度々自惚れに陥って反省するのはユーモラスで面白かった。主人公は憂鬱症だという記述が一度だけ出てくるあたり、暗い性質をもっているのが分かるが、小説は基本的に軽やかな雰囲気だ。筆者の楽観的なところが出ているのだろう。最後に、多感な主人公と周囲の人間との関わりが、心象風景を交えて等身大で描かれているのがよかった。特に人との別れのシーンはどれもよかった。先の先生もある日戦争に行ってしまうがそのシーンには感じ入るものがある。それでいてさらっと短く描かれているのも良いなと思う。あと完全にどうでもいいが、遠山っていう言葉いいなと思った。

 あと他に今日したことと言えば6本のアニメを一話ずつ見た。このアニメを見るのと読書は自分の仕事だと思うことにした。最近思うのだが、楽しいというのには意志の力が関わっている。気持ちだけではなく、何かを楽しもうという気概がなければ楽しくはなれないのだ。楽しいという気持ちだけを理由として行動していると、段々楽しめなくなってくる。楽しい事より苦しい事の方が多いのが普通だからだ。だから苦しいときには意志の力でもって、楽しいを生み出さなくてはいけない。わたしの場合、虚無に陥りがちだから、なおさら何かを楽しもうと思わなくてはいけない。だから、アニメを見たいという気持ちはないが、仕事をするくらいの意識で、見ていくのだ。

 あと、クラロワは消した。以前から、負けが続く時に激しい無力感があるので、何度もやめようと思っていたのだ。無力感があって苦しいのにクラロワをプレイしてしまう自分への激しい絶望もあった。今までなんだかんだやめずにいたが、もう止めた。昔、スプラトゥーン2をやめたのと同じことだ。ある日、わたしはスプラトゥーン2にあまりに苛々して、ゲーム機本体を破壊したのだ。当時は仕事のストレスも結構あったから、そういうことをしてしまったのだったと思う。壊す瞬間は、「これを壊さない限り、俺はこのゲームを止めることができない」という絶望感があった。今回、クラロワを止めて、教訓として、この手の面白いがゆえに悔しさも半端ではないゲームは、もはや楽しくないと考えることにした。自分のように感情の激しい不安定な人間は、それゆえにこういう快楽に縛られがちだが、それでは苦しくなるばかりだ。わたしはもうそういうものとは縁を切る。もう二度とこの手の感情を強く揺さぶられるものには手を出さない。

 6本のアニメは義務的に見たけど、結構面白い。やはり真面目に見るというのは大事だ。真面目に集中して見るということも楽しさの要因の一つだ。6本のアニメ以外にも「N・H・Kにようこそ」も見た。こっちは義務ではなく、一度見ているので何か別の作業をしながら適当に見た。なんかこのアニメは見ていると落ち着く。作品に流れている哀愁が自分にはちょうどいい感じなのだ。作品を見て改めて思ったのは、この主人公は引きこもりの中でも結構何とかなる方のタイプということだ。人に当たり散らしたりしないし、なんだかんだ山崎とか岬ちゃんとは話せているわけだし。常識的な社交の感覚は持っているのだ。最終的に飢えの恐怖から仕事を始められるのも納得がいく。この主人公は自殺するタイプではない。

こなすべきタスクを設定

 「銀の匙」を読み始めた。後編まではいかなかったが、その手前くらいまで読んだと思う。銀の匙を通して伯母とのことがよみがえるというエピソードは良かった。その後の伯母との細かいエピソードはほとんどエッセイのようだった。正直、この部分は退屈に感じてしまい、文字が全然頭に入ってこなかった。分からないからといって何度も同じところをなぞるのも面倒だったので、そのままどんどん読み進めていった。これではだめだと思ったが、主人公が学校へ入ってから面白くなったのでそんな杞憂も消え失せた。

 暇が苦痛なので、これから6本のアニメを一話ずつ同時並行で見ていこうと思う。アニメはネットを見ながら面白そうなものを選んだ。(↓)

・大正野球娘

ふしぎの海のナディア

精霊の守り人

舟を編む

灰羽連盟

東のエデン

 さらに松本人志のドキュメンタル8を少しずつ見る。それと弟の勧めにより軍司ミノルのブレスオブワイルド実況を少しずつ見る。またナンプレとかをやるくらいならもっとためになることをやりたいと思い、「赤毛のアン」を原文で読んでいくことに決めた。一日少しずつだ。あくまで暇つぶしという意識をもって行動する所存だ。そうしないと続けられないだろう。

 とにかく何とかして時間をつぶしまくるのだ。クラロワもやっていくが、これはもうあてにしない。正直、負けまくって精神が煮えくり返るので、あまりやらないと方がいいと思った。感情の激しい自分なので、精神が不安定になりそうなものはなるべく避ける方向でいく。

「大いなる遺産」読了

 空の高いところに霧のような雲がかかっていて、日は照っていたがいつもよりは涼しい日だった。昼過ぎに図書館へ行った。「大いなる遺産」を返却した。最後の百ページは思ってたより盛り上がらなかった。盛り上がるというよりしんみりする方向の話になっていた。ジョーやビディの善人ぶりには感じ入るものがあった。ピップとエステラで話が終わるのもよかった。「大いなる遺産」は一日百ページで8日かかった。ディケンズの小説を初めて読んだが以外にドラマチックだった。自伝的小説というけれど、むしろかなり創作的だと思う。全体を通してエステラとジョーが印象に残った。他にも面白いキャラクターがたくさん出てきてよかった。返却した代わりに「ハックルベリーの冒険」「銀の匙」を借りた。まずは「銀の匙」から読もうと思う。一度、短めの小説を読みたい。

 その後、喫茶店へ行き、ミルクティーを飲んだ。飲みながら、ネットサーフィンをしたり、ぼーっとした。時間はあったがやりたいことが無かった。すぐに虚無に陥り、苦しくなった。苦しいと思うたびに試練だと思って耐えた。何もしないのではなく、何もしないということをするのだと考えた。虚無感から何かをしても結局面倒なことになるのは経験で分かっている。誤った方向へ歩いていき、元の場所へ戻ってくるのにまた時間がかかってしまうことも多い。それならば何もしないでその場所へ留まっている方がいい。何もしないというのはおかしなことをしないということでもあるのだ。それに考えてみれば、何もしないよりも何かをすることの方が容易い。行動するというのはそういう意味では逃避行為になる。勿論、普通は行動が逃避ではない場合の方が多いと思うが、自分のように虚無に陥っている人間には逃避になることが多いと思う。虚無から逃げ出すために行動するというわけだ。しかし安易な方へ逃げてはいけない。何もしないということが苦しいのであればそれに耐えるべきだ。何もしないのが安心だと思えるようになるまで待つべきだ。今までは病みに対して何も基準がなかったが、これを基準にすることができるだろう。つまり何もしないことが苦痛に感じ出したらそれは病みであるということだ。もしそうなったら自分は病んでいると自覚しなくてはいけない。このことを肝に銘じてこれから注意深く生きていこうと思う。

 また、虚無に陥っているときの読書にも危険が潜んでいると思う。虚無の中では何かをしなくてはという想いにかられる。わたしの場合、対人に苦痛があるものだから、大抵は本を読んだりすることになる。しかし本の中の登場人物は大抵、精神の健康な人間として描かれている。そのためほとんどの本に共感が難しくなってしまう。だから結局自分のような虚無を内包している本を選ぶことになる。そうして虚無に共感していく内に虚無に陥っていく。虚無というのは元々何かに依存しやすいから、そうして暗い本につかってしまい、どんどん負のループが強くなってしまう。自分の精神の病みについて自覚があれば、こういうことに注意深くなるのだろうが、わたしはあまり自覚を持っていなかった。そのためドツボにはまってしまった。病みを自覚したら、あまり虚無的な本は避けた方がいい。普通の本にも共感できないのであればもう何もしない方がいい。ニヒリズムというのは芸術家の特権みたいなものだ。芸術家だからそれを生かすことができる。しかし普通の人間はそれでは生きていけない。だからニヒリズムは注意深く避けるべきだ。そんなことを考えた。