宇宙のことが心配です

好きに色んなことを書きます。日記が中心です。本、映画、漫画、アニメなどで暇を潰す事が多いので、その手の感想も書くかもしれません。

「N・H・Kにようこそ」を再視聴

 喫茶店へ行って「大いなる遺産」を百ページ。あと一日で読み終わる。最後に盛り上がりがありそうな予感がする。結構娯楽性があるのが意外だ。

 暇な時間のネットサーフィンで、これから読みたい本をリストアップしてみた。最近、自分にニヒリズムの傾向があるということが分かったので、少し注意深く選んだ。自分としてはニヒリズムから離れていきたいので、そういうものを内包した小説は避けようという訳だ。といっても読む前から内容がはっきりとは分からないので、あまり変わらない。とりあえず、ドストエフスキーの小説は避けることにした。カポーティの「冷血」は暗そうなので迷ったがリストに加えた。暗くてもニヒリズムとは違いそうな気がしたからだ。そんな感じで注意深く選んでいった。結局、今日作ったリストは以下のようになった。

百年の孤独

怒りの葡萄

・嘔吐

八月の光

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

・冷血

ドン・キホーテ

素晴らしい新世界

・夜間飛行

飛ぶ教室

ハックルベリーの冒険

「嘔吐」はちょっとやめたほうがいいかもしれないと思いつつ、入れてみた。結局、読まないかもしれない。悩み中である。「夜間飛行」「ハックルベリーの冒険」「飛ぶ教室」は今までの自分だったら読みたいと思わなかった本たちだ。わたしは自身のニヒリズムを意識しないでいたせいで、ニヒリズムに浸ることを何とも思っていなかった。自分の興味を誘うものを選んでいくとドストエフスキーとかに行き当たることが多かった。しかし今はニヒリズムから脱却したいと考えている。だからわたしには、そういう脱却のために有用な考えや生き方が必要なのだ。それが上の三つの本たちという訳だ。

 「N・H・Kにようこそ」のアニメ版を見た。クラロワやナンプレをやりながら見た。どちらかというとクラロワとナンプレをやるときのBGMとしてアニメを見た。そんな見方では、見たとは言い難いが、わたしはこのアニメを一度見ているので、何となく話に触れているだけでも楽しくはあった。改めてこのアニメを見てやっぱり音楽がいいなと思った。OPもEDも途中のBGMも全部がいい。特に岬ちゃんが歌うEDのイントロが流れるとしんみりする。勿論、踊る赤ちゃん人間も素晴らしい。音楽以外にも、対人恐怖気味の自分には引きこもりの苦しさが切実に迫ってくる。主人公がダメ人間であることは間違いない。心が弛んでるからダメなんだと責められても何も言い返せない。しかしそれは性格であって仕方のないことでもある。主人公は馬鹿なことを色々と引き起こす。それはアニメを盛り上げるためでもあるが、リアリティもある。自分も形は違えど世を渡るうえでの馬鹿なことを色々してしまった。だからそういう主人公のあほらしさはコメディであると同時に悲しさも帯びて迫ってくる。主人公は引きこもりを抜け出すとき「お金が無くて、死ぬ勇気もなかったら、働くしかないんだ。」というセリフを吐く。それは当たり前のことなのだが、それを想った瞬間というのは初めて理解したという感覚なのだということが伝わってくる。引きこもったり、何かから逃げている時には、頭では駄目なことをわかっているつもりなのだ。しかし本当に自分を追い詰める事は難しいものだ。自分に対して甘い人間はそうして恐怖の前に堕落していく。そういう人間はやっぱり駄目な人間なのである。それは間違いない。しかしそういう人間の生きる悲しみがこのアニメには流れている。それを見ていると切実な気分になるのだ。

久しぶりの曇り

 久しぶりの曇りだった。涼しかったが湿度が高かった。昼過ぎに喫茶店へ行こうとしたら、ちょうど激しい雨が降ってきて、行くのを止めた。仕方がないので家で「大いなる遺産」を百ページ読み進めた。遺産を与えてくれた人物が誰かが判明し、それについてひと悶着起きているところまで進んだ。読み終わったころに雨が止んだ。特に何もすることが無くなると苦しくなった。結局意味もないのに喫茶店に出かけた。喫茶店ではクラロワをやったり、ネットサーフィンをした。クラロワは勝てなくて激しい無力感に陥った。ネットサーフィンは、ただ時間をつぶしているだけだと思って苦しかった。喫茶店を出ると天気は晴れ間があるくらいに回復していた。家へ帰ってから今度はマラソンしに出かけた。夜、何もやることがなく苦痛だったが、携帯にナンプレをダウンロードした。達人級をプレイしているとクリアするのに一時間以上かかって良い時間つぶしになった。時間をつぶしているという事実に思い当たるたびに苦しかったが、耐えていった。何をしても無駄だという感覚も激しくて中々物事に集中できない。喫茶店でネットサーフィンしている時にこういう感覚はニヒリズムというらしいと知った。ニヒリズムは知っているつもりだったが、実は全然分かっていなかった。まさか自分のことだったとは思わなかった。ニーチェは全てが無意味だと知ってもなお積極的に行動していくことを説いているようだったが、自分にはそれはあまりに厳しい生き方に思えた。自分の場合、やはり全てが無意味に思えるその考え方自体を強制していくしかないように思える。そして自分は今それをしている最中という訳だ。明日も同じ苦痛に悩むことになるのだと思うと苦しくなる。そういう苦痛に陥っていると、時間がひたすら長く感じるものだ。それがまた苦痛を大きくする。死にたいと思っても自分の精神からは逃れることはできない。それもまた苦痛を大きくする。耐えよう。苦しみに耐えていこう。苦痛について考えていると苦痛は大きくなる。苦痛から逃れようとするとまた苦痛が大きくなる。苦痛には耐える意志を持たなくてはならない。こちらから迎え撃つくらいの気持ちでいかなければならない。そしたらいくらか苦痛も軽くなるんじゃないだろうか。それを期待して苦痛に耐えていこうと思う。

祖母の家へ

 梅雨が長く続くと思ったら、今度は晴れが続いている。野菜が育たなくて高騰しているらしい。明日の夕方には雨が降ると天気予報は言っている。そろそろ雨が降ってほしい。

 午前中遅くに、祖母の家にいった。祖母は朝食を作ってくれた。この頃はいつも朝食と昼食を兼ねていたので、久しぶりの朝食だった。ボリュームがあってかなりお腹がいっぱいになった。大根の料理が出て、わたしは作り方を聞いた。随分味が染みているから手が込んでいるような気がしていたのだが、作り方はごく単純だった。ただ材料を切って、粗塩と味の素をかけて混ぜ、ごまをかけるだけだった。それだけでここまで美味しくなるということに驚いた。祖母の料理は大抵そうだ。大変そうに思っても実は簡単に作られている。素直に感心した。祖父は医者に行って戻ってくるとわたしにコーヒーを豆から挽いて入れてくれた。少し苦かったが美味しかった。わたしは祖母や祖父と話をしながら新聞を読んでいた。話しながら読むのでなかなか理解できず、時間をかけてじっくり読んでいった。祖母は最近の自分の状況についてよく語った。わたしが自分のことをあまり話さないからそうなったのだろう。わたしは相槌を打ってそれを聞いていた。祖母は最近心掛けていることについてよく語った。その語りを聞いていると、祖母に色々な苦労があることが感じられた。わたしはその苦労の印象に共感しながら話を聞いた。対人恐怖が自分の奥底にあることを意識しているわたしとしては、かなりリラックスして人と時間を過ごせた。それでもやはり疲れはした。一人になりたいという想いはずっとあった。祖母は時間が経つと果物もむいてくれた。わたしは申し訳ない気持ちにもなりながらそれを食べた。こういう風な自動的で受動的な暮らしをするのは駄目であるような気がしたが、怠惰に流れた。

 昼過ぎに図書館へ行った。「大いなる遺産」をもう百ページ読んだ。よくわからないところは相変わらず大体の理解のまま読み進めていった。エステラの話が始まったあたりで百ページは終わった。エステラのところは面白くて集中できた。これからどうなっていくのだろうか。

 「失われた時を求めて」を手に取って冒頭を少し読んでみた。一文が長くて読むのに慣れが必要だと聞いていたが、少し読んだ分にはそれほど難しい文章だとは感じなかった。しかし書いてある内容はとっつきにくそうな気がした。これをいつか読むだろうかと考えたが、見当もつかなかった。

 家に帰ってネットサーフィンなどしていると、ベランダから向かいの家で飼っている猫が道路にまで出てきて寝転んでいるのが見えた。もとは野良猫だった猫だ。痩せた体をしていて少し痛々しい。わたしは家を出て、猫を撫でに行った。猫は人懐っこくて、向こうからもこっちへ歩いてきた。わたしが撫で始めると猫は道に転がった。わたしは背中や頭、お腹をしばらく撫でていた。撫でていると心が癒された。猫は可愛い生き物だ。猫はわたしが帰ろうとしてもずっと道に転がっていた。あまりに無防備に寝ているのでわたしは車に轢かれるのではないかと心配になった。そこで再度猫のもとへ戻って、猫を持ち上げて道路わきに戻そうとした。すると持ち上げようとした瞬間に猫は立ち上がって、今度はしっかりと座りなおした。あれなら大丈夫だろうとわたしは安心して、家へ帰った。自室へ戻りながら自分のように対人恐怖に陥っている人間には、猫などを飼うのは良いかもしれないと思った。自分の精神の不安定さで生き物を飼うのは不安だったが、いつか自分が安定感をもって生きられる日が来たら、飼ってみたいと思った。密かな目標になる気がした。

 それ以外の時間は、クラロワを少しやったり、アニメを見たりした。どれも暇な時間をただ埋めているだけで、全く集中できず、楽しくは無かったが、それでもいいのだと思った。 夜になってくると気分が苦しくなった。自分では自分の状況を崩すことができないという無力感と自己否定感で頭が埋め尽くされた。苦痛に耐える事が重要だと思ってそれに耐えていった。明日もその次の日も苦しみは続くのだと思うと、また苦しくなった。それでも耐えていった。耐えることに人生の意味があるのだと思った。

生の意味

 昨日から冷房を弱めにしているせいか、体調は元に戻ってきたようだ。

 図書館へ行って、「大いなる遺産」を百ページ読んだ。上巻が終わった。所々よくわからなかったが、あまり疑問を追いかけず、淡々と読んでいった。ピップがどうしてもジョーの存在を恥ずかしいと思ってしまうのが人間味があって印象に残った。もし自分だったら、良心の呵責のあまり欺瞞に陥りそうだと思った。ピップが自分の感情を正視し、肯定していく姿はたくましく思える。

 「失われた時を求めて」が図書館にあることに気づいていたが、それが文学の中でも最長と言われる本だということは今日初めて知った。アマゾンで検索したら全部で13巻あった。一日百ページずつ読んで、どのくらいかかるのだろう。2か月くらいだろうか。興味がわいてきたが、その興味は無謀であるとも感じた。しかしやはりいつか読んでみたいと思った。いつになるかは全く思いもよらない。

 暇な時間になると、思考がいつものように暗い方向へ落ちていった。今は、人生は別に無駄ではないと考えるのに少し慣れてきたのか、その手の虚無に陥りにくくはなった気がする。でもそう考える理由は特にないから、やはり考えないことは難しい。人生が無駄ではないと考える理由はどこにあるのかとうだうだ考えた。例えば、あるおじいさんが死んだとして、彼の人生が無駄だったと自分は考えるだろうか。わたしとしてはそうは考えない気がした。それは単純に同情からそう考えたくないだけにも思えたが、彼の人生が無駄ではなかったと思えるだけの理由が何か存在しているような気がした。その何かについて探るように考えていると、ふと浮かんでくることがあった。わたしは人間というのは誰でも苦悩と闘っていて、その生を全うするのはそれだけですごい事であると自分が考えていることに気づいた。わたしはそれ故に人の生が無駄であるとは思えないのではないかと思い至った。わたしはその考えについて考え、整理していった。すると自分にはどのようにして人生が無駄ではないと考えられるのかが見えてきた。人間には動物とは違って、根本的に苦痛が存在している。それは不条理というのかもしれない。宇宙の歴史からすると人類はほんの一瞬の存在かもしれないことや人類が消え失せても宇宙は続いていくかもしれないことだって、不条理といえるだろう。人間は不条理という試練を常に受けているのだ。だから人がその生を全うしたとき、そこには試練に抗って生きたという事実が残るのではないだろうか。肉体は消滅するが、その事実だけは永久に残るのではないか。だから誰かが死ぬと彼に何らかの誇りを感じるのではないか。それは無駄ではないのではないか。つまりわたしの場合、生の苦痛に耐えたことに意味があると思えるようだ。今までは人生は無駄ではないと理由なく言い聞かせるだけだったが、この考えが見えてくると強くそう思うことができた。暇の苦痛とか人間関係の苦痛とか自己否定が激しくなる苦痛に陥ったときにもこの考えでいると少しは耐えられた。自分は苦痛に耐えるということ自体が苦痛になりすぎていたかもしれない。とりあえずこの考えを大事にして生きていこうと思う。

不調の兆し

 体に不調の兆しを感じる。頭がボーっとするし、気分もよくない。もっとも気分が良くないのはいつものことだ。むしろそのせいで体調が崩れかけているのかもしれない。病は気からというわけだ。冷房の効いたところで過ごしているのも原因だという気がする。冷房の効いたところと暑いところを交互に移動するときの温度差にやられたという気もする。体調が少し崩れると気分も悪くなってくる。ますます体調が悪くなりそうだ。不安なので自室の冷房を弱めに設定した。

 「大いなる遺産」を百ページ読み進めた。読みたいという気持ちはなく、あるのは義務感ばかりだ。読むのが面倒くさかったが、読んだ。これを読むというのが、自分の決めた唯一のことなのだ。読まなければもはや自分には何もない。読んでいるとき、あと何ページ残っているかを何度も意識した。誰だか思い出せない人が出てきてもわざわざ調べようともせず、大体で読み進めた。それでも読んでいると面白いところがあった。ピップが遺産を受け取り、ロンドンへ出てきたところまで読んで、百ページは終わった。百ページが終わってみると気が楽になって、今度はもう少し読もうかという気になった。しかしそういう惰性は避けた方がいいと思った。決めたとおりに読んで、計画通りに読み終えるべきだ。そうしないと生活のメリハリがなくなる。

 道を歩いているときなどに、頭の中はいつもの思考に落ちていった。考えることは自己否定でいっぱいだった。何を考えても最後は自分にはできないという結論になった。全ての道が塞がっているような気がした。閉塞感がずっと続いた。働かなければという義務感はあるが、働けるという気はしなかった。その葛藤が頭の中でぐるぐる回った。自分は一生人生を苦痛としてしか捉えられないに違いないと思った。

 何もやりたいことがなくて見たいと思えるアニメを探した。「ようこそ実力至上主義の教室へ」の一話を見た。といってもアニメをじっと見るという時間が耐えられず、クラロワをやりながら見た。登場する学生たちがいい感じで、調子に乗ってるのが良かった。それと主人公が根暗なのが面白かった。この根暗主人公は自分の根暗をあまり気にしていないように思えた。根暗を個性としてしまっているようだ。それを見ていたら何だか気が軽くなった。根暗でもいいじゃないか、仕方ないじゃないかという自己肯定感がわいてきた。根暗を個性としていくというのが一つの道のように思えた。とはいえアニメの方はあまり見続ける気にならず、二話目は見ていない。面白いというのはきっと意志の力が関わっているのだ。だから意志の欠けた自分にはなかなか面白いというのは難しいのだ。

 とはいえやることはやっぱりなくて、「ブロスタ」というゲームを始めてみたり、「亡念のザムド」というアニメを観たりもした。ブロスタはクラロワつながりだが、やはり面白さが分かった。この感触だとしばらくはやり続けることになるだろう。亡念のザムドの方はあまり集中できなかった。面白い方だというのは分かった。でももしかしたら見続けるかもしれない。まだよくわからない。

自作詩「もう寝る」

本当は自由だと

歩いていて思う

本当は不自由だと

水を飲んで思う

 

下を向いて歩かない

人生だってあるし

外国人になってしまう

人生もある

 

自分の定めたルールで

自分を縛らなくてはならない

自由に定めたルールで

自分を縛らなくてはならない

 

トイレを我慢してまで

パソコンの画面を注視したり

時間ギリギリまで

ゲームをやってしまったり

 

それらを乗り越えていかなくてはならない

怠惰は罪だと言うではないか

 

わたしはもう寝る

そういうところから始めるのだ

原則探し

 昼過ぎに喫茶店に行った。道中、直射日光が強すぎて日傘を差した。日傘を差すのは老人であるという偏見があって今まで我慢していたが、遂に日傘をさした。よく考えたら、日傘を差すのは人生初めてだ。直射日光の下で日光に当たらないと、得した気分になるということがわかった。

 喫茶店で「大いなる遺産」を読み進めた。あまり集中できず、文章は読み進めていても、展開に気づけないことも多かった。登場人物の名前もピップとジョーくらいしか頭に入っていない。それ以外の登場人物は大体で理解して読み進めている。一日百ページ読むと決めた途端に読むことが面倒くさくなったが、読むことで義務を果たしたという満足感が得られるようになった。これでいいのだと思った。

 読書以外の時間はクラロワをやっていた。現在、ランク4500辺りをうろうろしている。無課金でやっているので将来のことを考えて、ノーマルカード中心でデッキを構成している。最近になって初めてクラロワの戦い方が分かるようになってきた。今まではこのカードで攻める、このカードで守るという方針がないままプレイしていた。攻守をイメージしてノーマルカードでデッキを構成するとコスト低めのデッキになった。高回転で回しながらジャブのようなダメージを入れていくデッキだ。方針が見えてくると負けた理由も見えてくるようになった。自分の攻撃のパターンだと相手のカードによっては通りにくいということなどに気づく。きっと普通はもっと早くにこのくらいのことには気づくのだろう。自分は今になってやっとわかってきた。スキルが上がったという気がする。しかし4500からはあまり動くことがない。自分のカードのレベルだとこのくらいが限界なのかもしれない。レベルを上がったらまた変化があると思うのだが、まだまだ時間がかかりそうだ。

 やることがなくなると苦痛だった。その度に人生は無駄ではないのだと自分に言い聞かせた。それは無条件に物事を明るく捉えようという言い聞かせだ。マラソンをしているときにも、人生が無駄ではないということに何かしら説得力のある根拠がないか考えていた。結局、見つからなかった。やはり人生が無駄ではないと意識的に考えるしか道はないようだ。こういうことを考えていると、この前読んだ「七つの習慣」という自己啓発本を思い出した。その本には、物や他人や自分を中心に生きるのではなく、自分が定めた原則に従って生きるべきだと書いていた。わたしはそれに説得力を感じ、感化され、何か原則を定めようとしたのだが、無理だった。自分の中にこうありたいという願望は見つけられなかった。でも今こういうことを考えていて、人生を無駄ではないと考えるということは自分の原則になるのではないかと思った。原則というのは自分の真の姿という訳ではなく、そう努めたいことであるから、やはりちょうどいい気がした。一つ原則が定まると、二つ目と三つめも浮かんだ。これは単純に本を読むこととマラソンをすることだ。「七つの習慣」を読んだ際には、原則について考えて中々思いつかなくて、これはかなり難しいことだと思っていたが、今になってみると、人間というのはそもそも気づかなくても何かの原則をもって生きているものかもしれない。知らないうちにこうありたいという生き方をしていて、それにより縛られて不自由を感じたりするのではないだろうか。原則を定めるというのは願望を見出すということだけではなく、今まで気づかずに存在していた原則を意識するということでもあるのではないだろうか。今回わたしが定めた原則も、本を読む、マラソンをするというのは今まで自分が守ってきたものだ。人生を意味のあるものだと考えるのは、新たな願望だ。意識していない原則を意識することで、快楽的な生き方から意志を重視する生き方に変われる気がする。原則を意識できればメリハリのある生活になるだろう。暇な時間は無為な時間ではなく、義務に対する休息の時間へ変わるだろう。今は暗中模索の状況なのでとりあえず、そういう方向で生活していこうと思う。

「大いなる遺産」を読み始めた

 暇な時間が苦しい。時間を無為に過ごしているという事実が苦しい。何かをしようと自分の中にやる気を探ってみるが、何も出てこない。何をしても無駄だという気がしてしまって、行動する気にならない。結局、時間を無為に過ごすか、時間を何かしらの行動で埋めるかのどっちかになる。どちらにしても苦痛だ。

 昨日考えたことをまた考えた。人生が無駄ではないと思うのなら、この無為に思える時間も無駄ではない。苦痛を感じるたびに、それを思い出して苦痛に逆らった。わたしはどうやら人生が無駄であるという考えに自然に傾斜していくようだ。だから苦痛になってしまうのだ。

 人生が無駄かどうかはたぶん選択の問題だ。どちらを選ぶことも間違いではない。はるか昔の無名の人間たちが生きたことを自分は無駄に思うかどうか考えた。考えると無駄であるような気がした。しかし彼らの人生が無駄だと考えるのであれば、偉大な業績を残した人間でさえ無駄であるということになると気づいた。さらには人類が今まで生きてきた事にも何にも意味がないということにもなると気づいた。

 やはり人生が無駄かどうかは選択の問題なのだろう。どちらか好きな方を選んでいいのだ。それならばわたしは無駄ではない方を選びたい。無駄ではないということが正しいと思えたらいいのだが、そこまでは思えない。無駄ではないと思うのは、無駄であると考えることが苦痛だからだ。わたし自身は無駄であるという考えに引っ張られている。だからまた無駄であるという考えに傾斜してしまうのだろう。わたしには苦痛になるたびに選択が必要のようだ。

 無為に時間を過ごすことが苦痛で本を読んできた。苦痛を埋めるためだから、一日に読む量もまちまちだった。でもこれからは読む量を決めて読もうと思った。計画的に行動することで無為であるという感覚は減るはずだ。とりあえず一日百ページと決めた。今日、ディケンズの「大いなる遺産」を読み始めた。このペースでいけば8日で読み終わるはずだ。図書館へ行ってこれから読む本も決めてみた。「八月の光」「怒りの葡萄」「百年の孤独」それぞれ8日くらいで読み終わるはずだ。

 一日百ページと決めてしまうと暇な時間は増えてしまった。暇な時間は苦痛だった。考えても意味のある行動が無く、無駄に散歩したり、書店で本を眺めたりして時間をつぶすしかなかった。無駄に散歩することが、自分にとってはまだ無駄ではない方なのだ。苦痛になるたびに人生は無駄ではないと思って、気持ちが苦しくならないように努めた。

 「大いなる遺産」はまだ百ページしか読んでいないが現時点でも面白い。主人公ピップの幼さがリアルだ。小さいころは恐怖が純粋だった。自分にもそんな恐怖があった。それが思い出された。出てくるキャラクターたちも面白い。一人一人がパワフルだ。ストーリーも面白くて引き込まれる。

 今までは日本の文学を読むことが多かったが、この頃はこうして海外の文学を読むことが増えた。どちらも読んでみた結果、今では海外の文学の方が面白いと感じるようになった。日本の文学は美しさがあったり、共感できたりという意味での面白いはあるのだが、エンターテイメントの要素はあまりないと思う。

暇で苦しい

 現在、精神を病んで休職状態だ。働いていないから暇な時間がたくさんある。本来なら楽しいことのはずだ。あれをやろう、これをやろうというのがあふれるのがおそらく健康な人間の姿だろう。でも、実際はその反対でかなり苦しい。何かをしたいのだが、何をしたいのかが分からない。ただ何かをしなくちゃという気持ちだけがある。内容のない空虚な焦りだ。一応、本を読むことを生活の中心としているが、楽しくて読んでいるというより時間を埋めるために読んでいるのが本当だ。じゃあ何もしなければいいと思うが、それが苦しくてできない。暇な時間があってただ無為に時間が過ぎていくことに耐えられない。もういっそ眠ってしまいたいと思うが生活サイクルを保つためには日中起きていなくてはいけない。こんな状態で何かをしても全て依存になってしまう。何かをしたいという気持ちが立ち上がらない限り、苦痛をごまかす為に行動することになってしまう。でもどうしたらいいかわからない。何もしないことは苦しくてできない。

 暇な時間から逃れたくて仕事を始めたいなどと考えるときもある。しかしそんな理由で仕事をしてもうまくいくはずがない。仕事を始めてもその新しい生活の中で結局苦痛を感じ出すに決まっている。この空いた時間を機に、自分に適した仕事は何だろうかなどとよく考えているが、こんな精神状態で出す答えを信用してもいいだろうかと疑問がわいてくる。こういう閉鎖的な状態だと一人であれこれと考え過ぎてしまう傾向もある。自分の気持ちなど分からないまま、苦痛の中で新しい理論をひねりだして、それを強迫的に信じようとする傾向もある。結局、病んでいる心で考える事は歪んでいるようなのだ。だから自分で自分の考えに慎重になる。そして慎重になりすぎて自分がまた分からなくなる。

 しかしそれでは仕事選びをするために精神を健康な状態にする必要があるということになる。今の休職状態でそんなことが可能だろうか。精神の健康といってもそれがどういうことなのかわかりもしないのに。一応、社交に対する恐怖がわたしの症状ということになっているが、わたしにはそれだけではないような予感がある。問題はもっと根本的なところにあるような気がする。例えば、上で書いたような暇な時間で苦しいというようなことだったり、自分で自分の気持ちがよく分からなくなったりするというようなことだったり、恐怖を中々乗り越えられない傾向があることなどだ。そこまでいくとそれはもはや誰にでもあてはまることだと思う。でもわたしにはそんな気がする。わたしは誰もが勇気で乗り越えていることを乗り越えられなくて、いつまでも同じ場所に留まっているような気がする。

 喫茶店で「暇で苦しい」と検索をかけたら同じ悩みを持っている人が知恵袋で相談をかけていた。その答えの中に、それは自分の時間を生きることができていないからというものがあった。その答えはもっともなように思えた。さらに長期的な計画を立てたりすれば今この瞬間がどういう時間なのかが見えているから暇でも苦しくならないとも書いていた。よく自己啓発の本を読むと書いてあることではあるが、改めてなるほどと思った。自己啓発本を読んでいくら分かったと思っても、実行に移さなければ結局分かっていないのと同じことである。わたしはやっぱり知ってはいても分かってはいなかったようだ。そして今回もどうせそうなるのだろう。

 長期的な計画を立てるというのは、つまり死ぬ直前くらいに自分がどうありたいかということを考えるということだろう。それが定まれば今が長い時間軸のどこにあるかが意識されて楽になるのだろう。マラソンをしながら自分の中でそういう長期的な目標がたてられるか考えてみた。しかし無理だった。自分はたぶんこういうことについて何度も考えてきて、そしてその度に諦めてきたのだと感じた。自分というものを主張し始めた瞬間、他人はそれを否定しにかかるだろう。わたしは自分の目標を考えたその先にそのことが浮かんできて、自分がそれに耐えられないような気がした。そしてわたしは自分というものにふたがされているのを感じた。そのふたは固くて、わたしはわたしが考えていることが結局分からなかった。わたしには長期的な目標を立てることは無理なようだった。全てが他人というもの世間というものに否定されてしまい、わたしはそれに耐えられないような気がした。わたしはあらゆるものに振り回されて生きるしかないようだった。それは刹那的で反応的な生き方だ。意志の欠如した生き方だ。

 しかし暇で苦しいということが何故なのかは少なくとも分かった気がする。それだけでも自分の進むべき方角が示されたようで少し楽になった。それにマラソンからの帰り道である考えが浮かんできた。わたしは、何もしない時間を無駄に感じてしまっているが、別にそんなことはないのかもしれないと思った。それは苦しいことがあってもそれがどこかで活きてくるから無駄じゃないという話ではない。その考えだと苦痛な時間は報われない限り肯定することができない。わたしが思ったのは人生が無駄じゃないのであればどんな時間も無駄ではないのではないかということだ。わたしは現状一つ目の仕事に失敗してこうして休職している。休職している間に考えていることは病的でまともなものじゃないし、本は読んでいるけど楽しくない。回復の方向性も見えていず、勉強もしていないし、人と喋ることも苦しい。何一つ将来のためになることはできていない。寧ろ休んでいる期間が長くなることで不利になっていくばかりだ。でもそれを無駄だと考えるということは、生きる事そのものを無駄と考えることになるような気がする。生きる事が無駄ではないのなら、こうして何もせずにいることだって無駄にはならないはずである。例え、引きこもりで何もできなくなっても、無駄ではないのだ。そんな考えが降ってきて、また少し楽になった。

カフカの「訴訟」を読んだ

この頃、カフカが面白くなってきた。多分、実生活が暗くなって、精神が引きこもりのようになっているのが原因だと思う。カフカの本では、主人公が不条理な状況に追い込まれていくが、そういう追い込まれる際の苦しさに感情移入してしまう。カフカの本を読んで、面白いと感じる自分がやばいのではないかと心配にもなる。

 

今までに「変身」「城」を読んだことがあるが、そのときはそれ程面白いとは思わなかった。おそらく精神がまだ追い詰められていなかったせいだろう。今では「城」をもう一度読んでみようかと思う。(「変身」はそれでも気が滅入るのでもう一度読みたいとは思わない。)

 

「変身」はまだ作品の意図が感覚的に分かるような気がするのだが、「城」は難しい。「城」では、主人公は城に行こうとして阻まれるが、現実を考えたらそんな理不尽なことは起きないように思える。だからこれはそもそも通常の話ではないのだと思ってみるのだが、主人公が城に阻まれる展開にはいやに現実的な心理が存在していて、説得力があるのだ。読んでいくと阻まれるのも仕方がないように思えてくる。するとこんなことが現実でも起きているような気がしてくる。現実で起きないにしても、現実の裏の姿という気がしてくる。裏というのは真ということでもある。

 

引きこもりに近づいている自分としては阻まれるという被害者的で自虐的な感覚に共感しやすくなっているようだ。カフカの面白さがわかるにつれて、すごさが分かってきたように思う。

 

それで今回は「訴訟」を読んでみた。未完ということだったが、気にならなかった。なんでもこの「訴訟」という小説は、コンセプト通りであれば主人公が永遠に裁判を続けなくていけないことになるため、結局未完であることが自然という解釈もあるらしい。そういえば「城」も未完だが、その考えでいえばそれも当然ということになる。

 

「訴訟」は難しかった。別に法律に関する内容が多くて分からなかったわけではなく、寧ろそれについてはほとんどないくらいだが、抽象的な話が多くて難解だった。でも書いてあることは人間の普遍的な心理であって、それを理解しようとすることは面白かった。ユーモアも結構あった。一番面白かったのは商人が出てくるところだ。この商人は既に裁判を5年ほど続けている。その意味では主人公の先輩ともいえる。商人は主人公のことを新人と呼ぶ。(この時点で少し面白い)商人は弁護士に弁護してもらっているが、その上下関係はすさまじい。商人は弁護士に会おうとしても、弁護士が会ってやる気にならなくては会うことができない。3日待たされるのもざらだ。さらに面会するときには商人は、四つん這いにならなくてはならない。また、何か弁護士に気に障ることがあれば、商人は容赦なく鞭でしごかれる。この上下関係の描写は流石に喜劇だった。いくらなんでもそれは、と突っ込んでしまった。こんな喜劇的なシーンが結構あった。部分的には真面目な話も出てくるので、全体として喜劇なのか何なのかよく分からなくなる。そのよくわからなさがまた面白くもあるのがすごいところだ。

自作詩「どこかへ」

自転車を使って

軽トラを使って

電車を使って

飛行機を使って

どこかへ行きたい

 

亀の背中に乗って

竜の背中に乗って

宇宙船に乗って

タイムマシンに乗って

どこかへ行きたい

 

雨の町を眺めながら

工事現場の作業を眺めながら

湯船につかりながら

どこかへ行きたい

 

ここだって異国だけど

ここだって宇宙だけど

ここだってどこかだけど

自作詩「雨の公園」

水たまりは喰い合って

広場には海ができている

大げさな遊具は

無人の工場みたいになっている

ベンチはベンチの形をした

古代の遺跡に変わった

 

普段ここに集まる人たちは

たぶん大した予定を持っていない

今頃は何をしているだろう

僕は小道を抜けて

目的地へ向かう

 

公園の水面下では

密かな計画が進行中である

自作詩「悲しくなるまで」

まず心があって言葉がある

心が無ければ海はただの海だ

 

心を忘れたら

座りのいい岩を見つけよう

 

そして悲しくなるまで

待っていよう

 

遠くへ鳥が離れるのを

見守りながら

自作詩「その橋は壊れやすい」

壊れやすい橋の向こうに君がいる

下を覗いてはいけないと誰かが言う

 

僕は君に手を振って

君は僕に手を振り返す

 

これでいいんだ

これでいいのか

テレパシーは妄想に過ぎない

 

その橋は壊れやすいのに

これ以外に渡る手段はない

 

散々歩き回ったせいで

僕の体は嘘まみれだ

勇気について考えすぎたと思う

 

今夜その橋を渡ってしまおう

流星の話を手土産にして

自作詩「携帯ゲーム」

小さな画面を見つめて

誰かと闘っている

悔しいのが嫌になるくらい楽しい

 

だが

不公平はどうやって解決できるか

将棋と囲碁の方がまだ公平だが

じゃんけんまでいったらつまらない

 

武士道が必要になると思うが

それは結局

僕に人生への道を提供してしまう

 

ゲームが人生だったら

どこにも逃げ場はなくなる

これが人生じゃないから

僕は夢中になれるのだ