宇宙のことが心配です

書きたいことを書きます。現在、無職。精神療養中。

バーニング 劇場版

月に一回、カウンセリングに行っている。あまり効果を感じてはいないが、かといって完全に無意味とも断定できずにいる。50分で8000円もするのが厳しい。これだけのお金を払うのであれば、それだけ治療の効果というのが欲しい。しかし、精神的なことなので、はっきりとした効果を得るということも、またむずかしい。料金がもっと安ければ、行く意味があるかなんて、こんなふうに考え込んだりすらしないのだが。

カウンセリングへ行っても、何も話したいことがない。ここ最近のことをさぐってみて、なにかネタにできそうなことがあれば、ほっとする。ネタがなにもないと、ほんとうにカウンセラーと向かい合いながら、何もしゃべらないで時間が過ぎてしまうことになりかねない。ぼくはカウンセリングのたびに、何か新しいことを語らないといけないような気分がしているのだが、たぶん、カウンセラーはそう思っていない。カウンセラーから、ぼくはたびたびそのことを指摘される。カウンセラーは、別に、このカウンセリングは、一か月の間にあった心境の変化を話すためだけにあるのではないと言う。しかし、ぼくとしてはやはり心境の変化というものがあったほうが、語りやすいのだ。何もない状態で、50分も話すのはむずかしく感じる。

カウンセリングにはっきりと効果は感じていないが、なにか話しているうちに、自分のことがわかったりすることがある。カウンセリングになにか効果があるとすれば、この気づきのことかなと思う。この気づきというのは、普段から自分について考えていることとは違っている。たぶん、自分ひとりで黙々と考えるのではんく、ひとに伝えるために実際に語りながら思考すると、いつもと違うものが出てきたりするのだと思う。あと、カウンセラーのことばが僕の考えに変化を与えることもあると思う。

この前、カウンセリングへ行ったとき、ぼくはこんなことを言った。

<今の状況はひとりきりで、誰かと会話することも全然ないですけど、それでも学校とか会社とかで集団の中でひとりでいるのとは全然違う。同じひとりでも、集団の中で一人でいるというのは、別次元で苦しいです。今のように家で一人でいるということは、それ自体は、やっぱり孤独で辛いですけど、それはただ孤独というだけで、全然耐えられないものでもないです。>

<学校とかだと、孤立って感じになるんですかね?>

<そうだと思います。誰かと話すと、楽しい時もあるけど、その人に合わせなくちゃいけなくない時もあるじゃないですか?そういうのが結構窮屈なんですよね。それだったら、仲間とつるんだりするより、ひとりでいるほうが楽だなってなるんです。始めはそこからなんです。始めは、ただ一人の方が楽だから、一人でいるんです。でもそうすると、集団の中でどうしてもうまくいかなくなるんですよね。なにか流れみたいなものがあって、世の中でうまくやるためには常にそれに乗っかっていないといけなくて。でも、ひとりでいると、その流れが止まる気がするんですよね。そうすると、初めて自分が孤立しているような気がしてくるんです。始めはただ一人でいたいっていう、いわば孤独に過ぎなかったものが、いつのまにか孤立になっていて。それで孤立してるなと思って、流れに乗ろうとしても、すごい疲れるんですよね。だから、結局、孤立していっちゃう。ぼくの経験だと、孤独より孤立のほうが、だんぜん辛くて。家で引きこもっているのも地獄ですけど、それでも孤立に比べれば、大したことないですよ。>

こんな感じで、流れるように喋った。話しながら、感情的になっているのがわかった。ああ、自分ってこんなことで悩んでいるんだと、ちょっと理解できた。

 

<バーニング 劇場版>を見た。イ・チャンドン監督。同監督の<オアシス><ペパーミントキャンディ>がどちらも、かなり良かったので、これも見てみようということになった。原作は、村上春樹の<納屋を焼く>

村上春樹の<納屋を焼く>を読んだことはないが、作者の小説の雰囲気とノリは知っていた。それで、映画化するのは難しいのではないかと思っていた。実際、映画を見た感じでは、やっぱり変な話だなという印象はあった。わかりやすいストーリーとは違って、謎が多く、結局、答えが開示されるわけでもなく、終わってしまう。見ている人間としては、ストーリーにはどういう意味があるのかなどと自分で色々と考えてみなければいけない。

正直言うと、ぼくはあまりこういう意味深な話が好きじゃない。エヴァンゲリオンとかが好きな人は、こういうの考察するのも好きなんじゃないだろうか。でもぼくは苦手だ。この映画にもたいして考察を深めようという気が持てない。別に、難解な映画を否定するわけではないが、ぼくとしては、ちゃんとわかるように作られている映画を見て、娯楽として楽しみたい。小説にしてもあくまで現実的な範囲で進行するドラマが好きだ。だから、村上春樹も正直、苦手だ。面白いところもあるとはおもうが、結局、分からないところが多くて、難しすぎる。

ただ、なんとなくわかるのは、この主人公の内面だ。<小説家になりたいけど、何が書きたいかわからない。なんか世の中に対して背を向けているところがあったりするけど、何が不満なのか見えてこない。金なんかと思いつつ、金持ちを見ると苛立たしい。>みたいな、そんな感じは伝わってきたし、共感できた。それで、納屋を焼くという犯罪行為にひかれるのも分かるし、それを目撃できないということに、自分が所詮世を騒がすことのない有象無象であることの虚しさが暗示されているような気がする。

この映画でどこまで原作に忠実なのかは分からないが、たぶん、ラストの展開は原作にはなかったんじゃないだろうか。たぶん、映画としては、なにかオチをつけたかったんじゃないかと思う。このオチが、映画の中で浮いてしまって、付け足し感が出てしまうようではだめだと思うが、ぼくとしては別に違和感がなかった。少しの唐突さはあったけど、これはこれとして良いように思った。

映画をみるうえで、村上春樹を映画にするとどんな感じになるのかという興味はあったけど、彼女だか何だかわからない女の子といきなり寝てしまうとか、ちょっと文章ぽいセリフがあったりしたのは、原作のノリを感じた。村上春樹の小説にはあまり現実感を感じないのだが、映画ではけっこう現実的になっていたように思う。ぼくは現実的なほうが好きなので、これはよかった。このあたりは監督のすごさかと思う。

 

 

丹下左膳余話 百万両の壺

昔は、好きな曲があると、CDを買ったり、レンタルショップへ行って借りたりしていたが、この頃はYOUTUBEで音楽を聴くだけになっている。長年の経験で、CDを買ってもたいして聞かなかったりするということは、身に染みて分かっている。それで最近はもう、<その時の気分に合わせた音楽をそのつど検索して聞く>というのが一番いい形なのだということになっている。こうすれば、自分の好みが変化するのにも対応可能だ。レンタル代もかからないし。

今は、CDが売れない時代というが、それはそうだろうと思う。ぼく自身、こうしてYOUTUBEだけで満足してしまえるわけだから。

それで、今日、マイミックスリストというのものがあることを初めて知った。ぼくが普段聞いている音楽を自動でリスト化してくれるというものだ。おそらく、履歴からAIがいろいろやってんだろうと予想するが、正直、このリストはすごい。<お前のお気に入りってこれだろ?>と的確に音楽を流してくれる。何でも察してくれる優秀な部下を持ったかのようだ。もういっそこわいくらいだ。

このリストを適当に聞き流しながら、作業をすると、すばらしく満たされた気分になる。<いやあ、すごい時代だな>と感心する。と、同時に、あまりにも個人的な世界に浸ってしまえることにぞっとする。いずれにせよ、これじゃ、もうCDなど買う気にもならない。携帯音楽プレーヤーすらこのごろはもう聞いていない。

 

さて、<丹下左膳余話 百万両の壺>という映画がある。山中貞雄監督。

この監督は、戦争に行って病気になって、若くして亡くなってしまったらしい。残っている映画も3本?しかないとか。実力は評価されていて、天才監督といわれていたらしい。

アマゾンプライムに3本ともあったので、全部見たのだが、全部面白かった。中でも、この丹下左膳の映画が一番好みだった。次に<人情紙風船><河内山宗俊>とくる。

はじめて映画のタイトルを見たとき、<何だこの長いタイトルは>と思って、とっつきにくかった記憶があるが、丹下左膳というのは、当時、新聞小説で書かれていた小説にでてくる剣士の名前らしい。左ということばが入っているように、この剣士には左目と左手しかない。隻手隻眼でありながら、刀の名人というキャラクターだ。いくつかの話があって、この映画はそのなかのワンエピソードということだ。

話としては、百万両の価値がある壺が街に出回ってしまったということで、必死で探すみたいな話。山中貞雄の映画はどれもノリが似ていて、小さな話がいくつか同時進行していき、それらの話が組み合わさって、全体の話ができあがるみたいな感じ。ちょっとことばにするのが難しいのだが、ひとりの主人公を中心に進むというより、いろんな人たちの話がそれぞれ進行していく感じ。この丹下左膳というのも、中心人物のひとりって感じだ。

どの映画もユーモアがあるのも特徴のひとつだと思う。そのユーモアというのも、落語っぽい感じ。それで、粋なノリというのが多い。さらに、けっこう人情のある世界観で、それでいておしつけがましくない。ヒューマンドラマで説教くささが出てしまうというのは、映画ではあるあるだが、山中貞雄の映画にはそういうことがない。非常に、自然だ。ぼくは、くさいドラマがかなり嫌いなので、このくささがないというのが、すごく魅力に感じられる。

ユーモアというのは例えば、こんな感じ。丹下左膳が道場破りに行き、道場の人たちを次々と倒してしまうシーン。

門下生<師匠、大変です。道場破りです。>

動揺する師匠<なに!>

門下生<それがたいそうな手練れでして・・・。ついに○○がやられてしまいました。>

焦る師匠<むう。○○が・・・。あっ!そうだ。××がいただろう。あいつに戦わせなさい。>

門下生<いえ、××は一番はじめにやられております。>

こんな感じ。笑いと言ってもかなり軽めのやつ。いっちゃえば、くだらないともいえる。山中貞雄の映画では、ところどころでこんな、ネタが出てくる。これがかなり好みだった。落語の笑いを思い出す。<ねえねえ、ちょっと耳を貸してくれよ><え?どっちの耳だい?>的なノリ。こういうくだらなさと知性の中間みたいなネタが非常にいい。

それで、さらっと人情がでてくるところがまた良い。丹下左膳が、子供に<おまえの親父が死んだ>と告げに行くシーン。

丹下左膳<おまえ、お母さんはどうした>

子供<いないよ。お父さんだけ。>

丹下左膳<・・・そうか。ふむ。そうか>

みたいな感じで、結局、丹下左膳は子供に何も告げられずに帰ってくる。こんなシーンがさらっと出てくるのが、すごくよかった。人情あり、ユーモアあり、ドラマとしても話がとてもよくできていて、面白い。この百万両の壺は、はじめどこにあるかというと、こどもが金魚を飼うための水槽として使っている。百万両の壺という欲の象徴みたいなものが、金魚の水槽みたいな素朴なものとして使われているのは、なんだかシニカルだし、それと同時に趣を感じさせる。粋だ。よくできた話だなと思う。

昔の映画には時代劇がよく出てくるが、監督によって、その世界観は全然違う。生がひたすら苦しい世界観とか、けっこうのん気だったり、いろいろ。たまに、どの世界観が現実に近いんだろうと考える。今みたいに科学があるわけじゃないから、やっぱり苦しいことがたくさんあって、残酷で理不尽な世界だったのかな。でも、かといって、人情がないかというと、それも違うと思うのだ。いや、むしろ、理不尽な分、人情は今よりもあったんじゃないだろうか。そんなこと思う。

公案<実践的禅入門>

いつも1時くらいに布団に入るのだが、起きるのが遅いのもあって、なかなか眠れない。たぶん、3時くらいまで意識はあると思う。体をじっとさせることができない性質だから、ベッドの上で常に体をゴロゴロさせている。眠れないと何だか苦しい。眠れないでいる間、色々なことを考えたりもするが、たいていは何も考えず、無心でいる。いつも夜の10時くらいになぜかぼーっとして眠くなるのだが、こういうときは明かりが付いていてもお構いなしで、すぐに眠りにつける。それなのに肝心の眠るころになると目が覚めてくる。眠るべきでないときに眠くなり、眠りたいときに眠れないとは・・・。人間とはうまくいかないものだと思う。

 

最近、仏教に興味があって、関連の本を読んでいる。

それで、読んだのは、<公案>という禅の本。著者は秋月龍珉という方。

 

仏教というのは比較的、知的な宗教と言われているらしい。仏教を哲学と見る人もいるくらいだから、確かにそうだろう。しかし、まあ、いくつか読書した結果、実際はやっぱり宗教であるらしい。だから、いくら知的といっても、頭や言葉ですっきりと理解できるものではないということだ。(でも、だとするなら、一体、知的な宗教というのはどうゆうことなんだろうか?)

実際、この本を読んでみてもそれは分かった。僕がこの本に興味を持ったのは、正直言えば、禅の公案というものに、何か自分をはっとさせるような思想や哲学があるではないかとう期待からだった。でも、読んでみて、それは見当違いだというのが分かった。結局、禅というのは宗教で、公案というのも別に思想などのように頭で理解できるようなものではなかった。実際、この本の中には33の公案と解説が載っているのだが、ほとんど理解できなかった。言葉が難しいというのもあるが、言葉が分かってもたぶん、分からなかったと思う。

どうやらいくつか本を読んだ結果、宗教でいう悟りというのは、理解して得るものとは違い、自分で体感しなければわからないことらしい。だから、実は、悟りというのは万人に普遍の境地というわけではなく、人それぞれに達するものという認識の方が正しいようだ。また、僕はよくこう思ってしまうのだが、悟りイコール聖人みたいな発想も違うようだ。別に悟りを得たからといって、性欲が克服できるとか、超人になるわけでもないようだ。まあ、それは考えてみれば当たり前である。感情だって、肉体の一部みたいなものなんだから、それをなくしたりすることなどできるはずがない。じゃあ、悟りの境地って、どういうものなのか?考えてみるが、それは分からない。考えてもわからない境地のことだとしか言えないわけである。まあ、性欲とか色々の苦しみというのは襲ってくるけど、それでも平然としているみたいな感じだろうか?いや、それも思い込みかもしれない。もっと違った境地なのかもしれない。

で、もし宗教体験が理解できるものではないのなら、宗教関連の本が難解になるのは、当然のことである。体感しなければわからないということは、本来、言葉では表現できないというだからである。いくつか関連の本を読んでみて、それらがみんな難解だったのも、仕方がないことに思える。いや、むしろ、宗教のことを解説するのに、こちらがすっきりと理解できてしまえるようでは、逆に怪しいということになる。本屋に行くと、結構、分かりやすさを売りにしている本もあるが、こういうのは怪しいわけである。実際、禅の公案などの解説がネットに載っていたりするが、なんだか、ただの道徳論になってしまっていたり、分かりやすい言葉で解説されていたりする。こういうのを見ると、なんか、違うような気がしてしまう。すっきり理解できるようでは、ただのとんちクイズになってしまうのではないか。

だが、実際、公案に何かわかりやすい解説が欲しいのも事実である。僕にしたって、手っ取り早く、禅が知りたくてこの本を読んでいるわけである。しかし、最近、仏教関連の本を読むようになってから、こういうなんでもいいから自分の糧にしないと気が済まないというような衝動には、自分でも呆れている。何だか、合理的であることから離れられないのが、自分の罪のような感じがする。何でも意味がないと我慢ができないこの感じがあるかぎり、自分には救いがないような気がする。

で、この本には、<最近の禅は親切に教えすぎる>的なことが書いてある。それが、どうやら時代の流れらしい。実際の禅というのは、どうも修行の感じが強いみたいだ。万人に開かれるものというよりも、やるきがあり、才能のあるものだけが高みにのぼっていくような、そういう世界のようだ。僕は、この本を読んでいて、落語界をイメージした。どこかの一門に弟子入りして、師匠に教えをこいたり、そんな感じ。公案というのも師匠に与えられて、何年も考えて、それをものにするらしい。まるで、噺家が自分の十八番を持つかのようではないか。

結局、この本を読んで、言葉も難しいし、言ってる内容も難しいで、たいして理解はできなかったのだが、わかったこともあって、それだけでも満足した。宗教の話が難しいのは、どうも仕方がないことのようだ。むしろ、すっきり理解できては本物ではないということか。僕は、正直、禅の本はもうやめようかと思う。これ以上、何かが分かるきがしないから。まあ、こういう世界があるということが知れただけでよかったかなという感じです。

ペパーミントキャンディー

先日、清掃のバイトに応募したのだが、落選した。向こうとしては、女性の従業員が欲しかったらしい。それなら募集要項に女性のみと書いておいてほしい。無駄足を踏んだ。憤り。

別に面接で落とされたわけじゃないから、そういう意味ではショックではないのだが、別のことで絶望している。そもそも、清掃の仕事を探そうと思ったのは、現状、あまり人とコミュニケーションをとりたくないからだ。清掃の仕事なら、比較的、一人作業で済みそうだという気がしていた。そういう見込みで、今回応募したのだが、調べてみて、意外とぴったりくる求人が少なかった。たいていの求人は、仕事時間が短かった。それで、今回応募した求人は、やっと見つけた求人だった。それに落選してしまったので、どうも清掃の仕事に就くのも難しいのかもしれないと思い始めた。かといって、これ以外に自分にできそうな仕事が思い浮かばない。テレワークの仕事にも申し込んだが、落選してしまった。まだたったの2つの求人に申し込んだだけなので、それだけで、仕事がないなどと思うのも、早計過ぎて馬鹿馬鹿しいと感じつつ、やっぱり絶望している。仕事がなければ死ぬという想いが頭に浮かんでくる。

 

イチャンドン監督のオアシスを見て、衝撃的だったので、同監督の<ペパーミントキャンディー>も見た。

映画は、7つ?の小話で構成されている。

一個一個の小話はそれぞれ年代が違っている。一番初めは19XX年で、次の話はそのX年前、次はさらにY年前・・・。というように小話は段々と過去へさかのぼっていく。

その小話と小話との切り替わりのときに、汽車から映像が挿入される。この汽車からの映像は、一見、線路の上を進んでいくときの映像に見えるが、よく見ると、散った花びらが元に戻っていたり、線路沿いを走る車がバックしていたり、人間が逆向きに歩いていたりする。つまり、これはバックしている汽車の映像というわけであり、小話が進むにつれて、過去へ戻っていくというこの映画の仕掛けに合わせた映像ということである。

一つ目の小話で、主人公の男は、汽車の前に身を投げ出して、自殺を図る。何で彼はそれほど絶望してしまったのか?これが小話が進むにつれて、段々と見えてくるという映画になっている。

映画の予告を見た段階で、時間が戻っていく映画だということは、知っていた。でも、<だからなに?>という感じで、特にそれについて何も思うことはなかった。別に、映画的にはそんなに珍しくないと思った。でも、映画の途中で、その仕掛けの持つ効果に気づいたとき、<なるほど>と思った。

この映画は、普通に時間を進めていったとすると、主人公が生きるうちに段々と心が腐っていってしまう話になっている。しかし、それを時間を逆戻しにすることで、始めに腐っている状態が語られて、話が進むにつれて徐々に、純真だったころへ帰っていくという話に変わっている。この段々ときれいだった昔に帰っていくという演出が、悲哀と美しさを感じさせて、とてもよかった。普通に時間が進行していく映画だったら、始めに明るい要素があって、それが段々と暗くなってきて、最終的に自殺を図るというバッドエンドの映画になっていた。今まで見てきた映画は、大体、バッドエンディングかハッピーエンドか、特に解決とかはなくただ終わるか、そんなパターンだった気がする。この映画は、最終的に一番純粋だったころの話で終わりになるから、ちょっと明るくて美しい感じで終わるのだが、実際、その美しさの分だけ哀しくなってしまうわけである。美しいんだけど、哀しい。その最後の印象が、今までに味わったことのない体験だったので、最終的にとてもいい映画を見たという気になった。こういう効果を狙って、時間をさかのぼらせたのだと思うと、<さすがだなあ>という感じ。

オアシス

無職になり、誰とも喋らない生活を続けるうちに、段々と固まっていた気持ちがほぐれてはきたのだが、人としゃべることにはますます嫌気がさしてきている今日この頃。

9月になったタイミングで、バイトでもいいから何かを始めようと思い、完全にテレワークでできる仕事に応募した。仕事内容は、WEBサイトで商品のランキングを作成して、さらに紹介記事を書くというもの。応募してみると、テストとして、あるランキングを作成して、記事を書くように言われた。マニュアルとかがあって、それを読むのと、実際に作業をするので、めちゃくちゃ時間がかかった。5時間くらいかかったと思う。ただのテストなので本当の仕事よりもはるかに軽いものだ。それなのに5時間かかるとは・・・正直、軽い絶望を感じた。本当の仕事では、このテストの三倍くらいの仕事をして、もらえるのは2000円だ。ぶっちゃけ、割に合わない。というか、これでは生計が立つかどうか怪しい。完成した答案を送信して、テストの結果を待っている間で、<これだと受かっても仕事としてやっていくのはどうなんだろうか>と疑問に思った。それで、結局、テストには落ちた。今回はお見送りさせてくださいと書いてあった。今や、この仕事にあまり乗り気ではなかったが、それでも結構ショックだった。なぜ、落ちたのだろうか?紹介記事を書くと言っても3行程度のもので、それほど難しいとは思えないのだが・・・。よほど、僕の文章がひどかったのだろうか。ぶっちゃけ、落ち込む。

それで、相変わらず、どんよりとした気分で、生活している。自動的に生きているという言葉がぴったりだろう。

 

さて、近況はさておいて、タイトルにあるように「オアシス」という映画を見た。監督は、イ・チャンドン韓国映画

社会に適応できない男と脳性麻痺で体が不自由な女との純粋な恋愛を描いている。

見たあとで、一番最初に思ったのは、<すごい映画撮るなあ(びっくり)>という感想だった。

まず、女性役の人の演技がすごかった。昔、ギルバート・グレイプという映画を見たのだが、レオナルド・ディカプリオが障害のある男の子役で出演していた。それを見た時も、その演技に驚いたものだが、このオアシスの女の人はそれ以上に演技的にすごいように感じた。その演技は、もう本当に障害がある人なんじゃないかと思ってしまうくらいのもので、見ていて、いたたまれない気分になるくらい真に迫っている。正直、これにはびっくりした。ここまでのレベルのものを撮るって、韓国映画ってすごいんだなと思った。

この映画では、女の人の方は障害があって、それで社会的に孤立している。精神的にはおそらく普通の人間だ。一方、男の側は、体には問題はないが、精神的に少し非常識な癖を持ち合わせており、一般的な社会生活をしている人たちから常に疎まれ、説教を食らっているが、それでも社会に適応することができないでいる。さっき、女のひとの演技がすごいといったが、こちらの男の側の社会不適格ぶりの描写もすごい。何がすごいって、リアリティがすごいのだ。

実際、映画を見ていて、この男の振る舞いには何度もいらいらさせられた。彼の周囲の人間は彼に、<おまえ、いい加減大人になれよ>的なことを何度も注意するのだが、彼はそれをなぜか守れないのだ。<ルールなんだから守れよ>って言っても守れない。守ろうとする気がないのか、何なのか。常識的な人間からすると彼の行動は理解できないだろう。僕は、正直、こいつは頭に何か病気でも持ってるんじゃないのか?って思ってしまった。そうでも言わない限り、この男の不適格に理由がつけられないのだ。

なぜ、言われたことをやれないのか?この男は何を考えているのか?このあたりの内面は映画でははっきり明言されない。ただただ、この男は社会不適格なのだ。

しかし、ここで、この映画がやっぱりすごいなと思うのは、決してこれは非現実的なキャラクターではないというところだ。なんでなのかどんなに注意しても、守れないやつって、確かに世の中にはいる。そして、そういう人に対して社会に適応している奴がどんな反応を示すか?こういう現実もこの映画はそのまま素直に描写している。そこがこの映画を深いものにしている。ただ単純に、この男にいらいらさせられるから、この映画は嫌いだとは言いきれない。それくらいに、深みのある映画になっていると思う。

そして、さらにこの映画がすごいと思ったのは、この男は社会的な見地からすれば屑なのだが、そういう見方をしなければ、ただの感情をもった人間でもありますよということまで感じさせるように描かれていることだ。だから、見ている側としては、この男にいらいらさせられるのだが、一方でこの男だって、この男なりの真面目さで生きているんだということが感じられるのだ。このあたり、出てくるキャラクターに安易に善悪のレッテルを張らないという意志が感じられて、監督がただものじゃない気がした。

それで、最後に、この映画を見て、一番すごいなと思ったのは、あくまで男女の純粋な恋愛を中心に据えているということ。この二人は社会的に孤立しているという共通点があって、そのために差別を受けたりする場面が出てくるのだが、普通の映画だったら、こういう差別的な場面が一番強く出てしまうのではないかと思う。つまり、そういう差別を受けたりする描写があると、どうしてもメッセージのある社会的な要素の強い映画になってしまうと思うのだが、この映画では差別などはあくまで、中心のテーマのスパイス程度のものになっているということだ。社会的に孤立している二人が、その孤立ゆえに惹かれあい、その孤立ゆえに純粋な恋愛をするという、そういう恋愛映画になっていることこそ、この映画の良さだと思う。

とにかく、イ・チャンドンってすごいんだと初めて知った。

家族ゲーム

 

家族ゲーム

家族ゲーム

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 森田芳光監督を知らなかったが、調べてみると、失楽園とか間宮兄弟とか武士の家計簿とか、よく知っている映画を撮っている人だった。

よく知っていると言っても、名前だけで見たことは無いのだが。

今挙げた映画のほかにも、よしもとばななのキッチンも撮ったらしい。

これは興行的に失敗したようだが、内容はそんなに悪くないらしい。

 

調べてみると結構有名な監督のようだ。

しかし、正直なことを言うと、監督の映画にはあまり興味がない。

感覚的に、あまり趣味じゃない気がしている。

単純に最近の邦画があまり面白くないということかもしれない。

 

でも、この家族ゲームという映画は、面白かった。

アマゾンプライムで勝手に推薦されていて、どうやら高評価な作品らしいと知ってから、興味が持っていた。

 

この映画では、問題を抱えたとある家族が描かれている。

時代は一昔前。

良い大学へ行かなければだめなんだという考えが主流の時代。

次男が受験を控えているのだが、こいつの成績が上がらない。

父親は次男の成績を上げるために家庭教師を雇うことを決める。

やってきた家庭教師は、なんと三流大学の七年生だった。

という話。

 

問題を抱えた家庭に家庭教師がやってくるという時点で、何となく想像していたのは、破天荒な家庭教師がヒーローのように感動的に問題を解決していくというものだった。

もし、そうなっていたら、多分クサいドラマになっていたと思う。

ちなみに、僕はそういうクサいドラマは苦手だ。(ごくせんとか)

 

でもこの映画は、イメージとは違った。

この三流大学出身の家庭教師は、ヒーローでもなんでもなくて、本当に三流大学出身の変わり者だ。

問題を格好よく解決してくれることなどなく、この男ができる範囲内のことをやってみせるだけだ。

そこにドラマチックなところはまるでない。

この点はすごい良かった。

 

この家庭教師は、三流大学といっても、それなりに教育的に要領を得ている感じはある。

意外と言っていることはまともだし、態度も理性的だ。

決して教育的なセンスがないというわけではないという印象だった。

ただ、最初の方で、父親と家庭教師が車の中で密談するシーンがある。

父「成績を上げたら、金は出すよ。一位上げるごとに一万出してもいい」

家庭教師「ほんとですか」

家庭教師はこうして俄然やる気を出す。

家庭教師は、更にこう言う。

「一万ですよ。絶対ですよ。頼みますよ。云々」

 

このシーン、父親と家庭教師はいかにも汚い大人であり、この二人は駄目だなと感じざるを得ない。

しかし、まあ、大学生の方は、金のこととなると他のことはどうでもよくなる人間であるというだけだ。

これはリアルにクズっぽいが、ただそれだけに過ぎない。

彼はクズ人間であり、それ故に、クズであるということの不快感はあるのだが、最低限のことはちゃんとしているので、家族のメンバーたちと比べたら、不愉快な印象は無い。

つまり、三流大学という意味では馬鹿ではあるのだろうが、人間としては馬鹿ではないという感じ。

結構、常識的なのだ。

 

例えば、次男を叱り付ける時に張り手を一発くらわすシーンがあるのだが、これなんかは、ちゃんと理由があって、寧ろ次男の曲がった根性を叩きなおすためにはそれしかないのではないかと視聴者としても思ってしまうくらいなので、その意味ではちゃんとしていると思う。

勿論、どんな理由があっても、暴力はいけないという意見もあろうが、まあ、暴力に訴えるというやり方の中では比較的まともに映るのだ。

だから、家庭教師は結構まともに映る。

あくまで普通にクズっぽい大学生という感じ。

 

僕には、それよりも家族の方が酷く感じられる。

父親は、あくまで頑固に成績を上げろの一点張り。

自分が息子たちに直接かかわるとぎくしゃくするからと言って、母親と家庭教師に教育を任せている。

任せていながら、息子たちを上手に教育できない母親に苦言を呈している。

 

母親の方は、夫に怒られるのが怖いからと言って、息子たちに、勉強するようしつこく言い続けている。

 

次男は勉強をしていないのにもかかわらず、自分は頭が良いなどと言っており、時には周りを馬鹿にしているような感じすらある。

大人に対して反抗的でありながら、甘えてもいる。

言われた事を守らなくても、殴られやしないだろうとたかをくくっており、それ故に家庭教師に張り手を食らうと、すぐに言うことを聞く。

そして「やさしくしてくださいよ」などとほざく。

次男の性格は個人的にかなりむかついた。

そして、こんなやつ、確かにいるなと思わせるところが、この映画のリアルなところ。

 

長男は、次男の成績問題に関して、巻き込まれたくないという感じで、次男に比べれば優等生なのだが、色々と不満は抱えている印象。

長男は比較的、問題の少ない学生に見える。

少なくとも、見ていて、苛々はしない。

そんなに登場もしない。

家族の中では一番、良い性格をしているような気がする。

母親が「お父さんが怒るから、ちゃんと言うこと聞いてね」と言うと、長男は色々と言いたいこともあるだろうが、それらを堪えて、「わかっているよ」と答えるのだ。

そんな性格だ。

だから、それ故に、こっちとしては、辛さも人一倍あるのではと疑ってしまう。

 

僕の感覚だと、この家族の問題の根本は父親の頑固な姿勢にあるような気がする。

父親が息子らの自由意思を無視し、あくまで勉強を強制するせいで、息子らは大きなストレスを抱えている。

また、母親も父親への恐怖から、おどおどして、奴隷になり下がっている。

しかし、一方で次男の性格自体にもクズっぽいところが見られ、それが父親のせいなのかというと、それも違う気がする。

結局、何がこの家庭を脅かしているのかというのは、考えても分からない。

 

実際、父親の成績にこだわる姿勢にも確かに正義があるのだ。

良い学校には行った方が確かにいい道が開けるという事実は存在する。

こうなってくると、社会のシステムの問題も関わってきて、ますます分からなくなる。

この家族はどうしてこんなことになっているのか。

結局、言うことできるのは、社会の歪みがこの家族の中に侵入したということだろうか。

ウイルスが父親経由で家族に侵入し、家族内にストレスがばらまかれるというイメージか。

 

一番良かったシーン。

最後の食事のシーン。

家庭教師が家族を殴って失神させ、机の上の料理を全て床にぶちまけてしまう。

これがすごく爽快だった。

問題を抱えた家族を1時間以上も見せられて、視聴者としてもイライラが募っているなかで、この破壊のシーンがくる。

これは本当に良かった。

「おまえら、なにやってんの?馬鹿じゃねえの?」という人間、あるいは社会への痛烈な皮肉であるように思われる。

 

家族ゲームという映画のタイトルはおそらく、大事なものを失い不満を抱える家族を、表面だけを繕っているものとして、皮肉ったものだろう。

外部から見ると、彼らはあまりに馬鹿馬鹿しいことをしているように見える。

しかし、よく考えてみれば、どのキャラクターも馴染みのあるものだと気づく。

映画を見て笑いながらも、それが自分たちのリアルでもあると分かってしまうのだ。

こういうところが本当に良い映画である証拠であると感じた。

 

最後のヘリコプターのシーンは意味が分からなかった。

 

あと、全体的に演出の凝った作品で、実験的な趣すらある。

そして、それが結構いい味を出していたとも思う。

 

マンチェスターバイザシー

 

マンチェスター・バイ・ザ・シー (字幕版)

マンチェスター・バイ・ザ・シー (字幕版)

  • 発売日: 2017/08/18
  • メディア: Prime Video
 

 映画について情報をあさっていたとき、度々目にして、評判もよさそうだったので、いつか見ようと考えていた。

心に傷を負った人たちのドラマであり、幾分重たい話のようだと分かると、一層見てみたくなった。

 

結論から言えば、悪くはない。

しかし、そんなに面白くは無かった。

良いシーンもあったのだが、不思議とあまりインパクトがなかった。

 

少しネタバレになってしまうが、この映画で主人公は最終的に、自身の心の痛みを乗り越えることができない。

最後の方で、主人公が「どうしてもだめなんだ」と諦めがちに宣言するシーンは一番印象的だった。

珍しい映画だと思った。

多くの映画は、悲しみや葛藤はありつつも、最後にはそれを乗り越えたり、あるいはそれを癒すことが多い。

そこが感動的だったりするのだ。

でもこの映画は、悲しみを乗り越えられない。

物語の始めから終わりまで、主人公の雰囲気は感傷的で、人生に対して心を閉ざしている。

 

実際、現実世界でもどうしても乗り越えられない痛みを抱えている人もいると思う。

というより、痛みというものが、トラウマレベルででかいときに、乗り超えるなんてことがほんとに可能だろうかとも思う。

乗り越えた瞬間から完全にふっきれて何も感じなくなるとか、あるいは痛みが癒されて消滅するとか、そんなことがあるだろうかと。

そんなのは映画的な作為でしかないような気がしてならない。

実際は、痛みを抱えながら生きるというのが大抵ではないだろうか。

だから、この映画、そういう意味ではリアルと言えるかもしれない。

 

でも、そんなには印象に残らない。

この映画レベルのトラウマが自分に存在していないというのがあるかもしれない。

いや、勿論、僕自身、思い出すたびに心が痛む過去など無数にあるのだが、まあ、この映画で語られる事件と自分の嫌な過去とは比べようもないことは分かる。

 

別に乗り越えてほしかったと言うつもりはない。

これはこれでありだと思うし、良い映画ではあると思う。

ただ、不思議と印象が薄かった。

結局、そこにいきつく。