宇宙のことが心配です

書きたいことを書きます。現在、無職。精神療養中。

レミオロメンがやっぱり良い

この頃、また

昔、レミオロメンをよく聴いていた。結構好きだったのだが、風のクロマあたりからあまり好きだと感じられる曲が無くなりはじめ、花鳥風月でさらにその傾向が強くなった。それで一時期、あんまり聞いていなかった。藤巻良太としてソロ活動をしているときに、オオカミ青年とかちょっと聞いたりもしていたが、それも何か歯に食い物が挟まっているかのように納得できないものが少しだけあって、そのせいで何度も聞くことにはならなかった。でも、最近またレミオロメンを聴いている。といっても、花鳥風月以前のものが中心なのだが。ただ花鳥風月もこの頃は、いいような気がしている。starting overとか立つんだジョーとかも初めは抵抗があったが、よくよく聞いてみるといいじゃないかと思う。

心境の変化

許せるようになったというと何様なんだということになるが、でも実際そういう感じ。昔はレミオロメンが段々と変わっていっているという印象を抱いていた。実際、それは確かだと思う。レミオに抵抗を感じるようになってから、バンドが変わっていくのか自分の感性が変わっていくのかとよく考えもした。それでいつも、共に変わっている、が答えだろうと結論を出した。全てが変わっていくのだ。それが真実である。なので、こればかりはもう仕方ない。僕の友人にもレミオ好きがいるのだが、友人は一貫して昔も今のレミオも好きだと言っていた。しかし僕はどうにも変化が嫌で、今のレミオを手放しで良いと言うとウソになってしまう自分を感じていた。だから、どうにも本当のことが口にしずらかったものだ。

しかし、今では、時が経過して僕の方の受け取り方も変わってきた。それで今改めて、レミオの曲を聴いてみると、やっぱりいいじゃないかと。花鳥風月は相も変わらず納得できないところもあり、たぶんこれは消えないのだが、風のクロマには昔気づけなかった良い曲があると、気づくことができた。例えば、もっと遠くへ。これは多分、レミオが好きな人なら、名曲であることは当たり前かもしれない。でも恥ずかしながら、僕はこの曲も昔は初めからあまりちゃんと聞いていなかった。今になって、名曲だと気づいた次第である。どんな自己啓発本よりも良いと思うくらい歌詞がいい。それ以外にも、リズム。これもいい。歌詞がいい。あとRUN。これは昔はあんまりだったが、今ちゃんと聞けば良い。あと、茜空。しかしこれは昔も好きだった。昔から好きな曲もある。茜空とアイランドは昔から好き。しかし、今聞いてみると、花鳥風月さえレミオらしさがないかといえばそんなこともない。やっぱり花鳥風月に見られる歌詞の感じは昔あった要素の延長のように思われる。花鳥風月の中で一番良いのは東京かな。Cメロはどれもやっぱり良い。いや、メロディーはどれもかなりいいのだ。問題は歌詞なのだ。そればかりがやっぱり引っかかるのだ。

個性が爆発してるので初めはとっつきにくい

レミオロメンの曲は大抵がスルメ曲で、初めて聞くときは、良いと感じるよりかは戸惑ってしまうことが多い。これ、どうなんだろう?また、すごい曲作るなあ。という感じ。メロディーも歌詞も結構癖が強い。しかし、何回か聞いているうちに慣れてくるといい曲だと感じられるようになる。そういうパターンである。

花鳥風月の何が嫌か

花鳥風月の何に抵抗を感じたかと説明するのは難しい。ただ、歌詞であることには間違いがない。音楽的な要素に関しては流石にレベルが高いと感じるし、良いと感じる。だからこそ、抵抗もありながらもたまに聴いているくらいだ。それじゃあ、歌詞のどんなところに抵抗があるか?

レミオの好きなところ

僕の感覚では、レミオロメンの良さの一つというのは、あまり格好つけていないところにあると感じている。ビジュアルというよりは、歌詞的な意味で。歌詞のすごさでいえば、例えばミスチルとかバンプオブチキンはレベルが高い。彼らの曲もたまに聴くし、好きである。何より歌詞のすごさに感嘆する。メロディーに乗っかるように歌詞を、それもただの歌詞ではなく、的確で良い歌詞を考えるその器用さ、技術は確かに芸というべきもので、こんなことは誰にもできないと思わせる。レミオロメンの歌詞もすごいのだが、ミスチルバンプには敵わないかなと思う。

でも、僕は不思議とレミオロメンが好きだ。あんまり聞かない時期もあるが、また戻ってきて、リピートしてしまう。なんでだろうとたまに考えるのだが、その結論として出てきたのが、レミオロメンはあまり格好つけてない感じがするという話なのだ。うまく言えないが、繕って上手く魅せるというよりかは、繕うことには頼らず内面を磨くことによって魅せようと心掛けているような純粋さ、真面目さ、不器用さが感じられるような気がするのだ。それは自然にインディーズ感があるということにつながるかもしれない。

改めて、花鳥風月の何が嫌か

花鳥風月では、ちょっと格好つけているような気がする。そこに無理があって変な感じを醸しているような気がする。ただ、それでもレミオらしくないということはない。やっぱり藤巻さんが考える歌詞だという感じはする。だから、変化したのは明らかだが、変化していないものもあって、それ故に何がどう変化したかと的確に説明するのは難しい。なので、この辺でやめておく。とにかくレミオがなんだかんだ好きだということが分かったという話。

 

不愉快な出来事

先日、非常に不愉快な出来事があり、本当はそんなことを書きたくなかったのだが、書かざるを得ないくらい嫌な気持ちが溜まったので、書くことにする。

雨の日。とある喫茶店。店内は混んでいて、席は一つか二つしか空いていない。窓際の1人用の席に座った。隣には人がいて、精神的に窮屈な感じ。

テーブルとテーブルの間に、意味深な台があった。その台はテーブルと繋がっている。私はその台をおそらくテーブルに付いた荷物置き場だろうと考えた。それで、その台に置き傘を置いた。

すると、右隣のおじさんが私の方を意味ありげに見ている。私は瞬時に察知した。これは、何か反感を買ってるなと。おそらく、おじさんはこの台を荷物置き場だと思っていず、テーブルとテーブルの間にある何か意味深なデザインフルなものだと思っていて、そのために、私が傘を置いたのを自分の領域が侵されたように思い、不快感を感じているのだと。

私は恐る恐るという気分になったが、それでも、傘を置いたままにして、本を読み始めた。私の中で、これは荷物置き場だという認識は揺らがず、なので自分は正しいと思った。

本を読見始めてすぐ、おじさんは椅子の背に掛けていた自分のレインコートをわざわざ僕の傘の上に置いてきた。完全に当てつけである。私は激しく憤りを感じた。私の言い分は、お前の荷物置き場も右側に付いているだろうが!というもの。

私は憤りを感じていたものの、同時にそれと同じだけの人見知り的な恐怖あるいはこのおじさんに何か言って反対にキレられたらかなりしんどいことになるという思いにも駆られていた。私は激しい感情のままにレインコートの下から傘を引ったくるように取り出して、どこにも置き場がないので、仕方なく椅子の下の地面に置いた。そうして、また本を読み始めた。おじさんには動きはなかった。

私は本を読み始めたものの、怒りで全く集中できなかった。やるせなくなり、もう店を出ようと衝動的に思いたち、アイスミルクティーをとんでもない勢いで吸い始めた。しかし、その途中で、考え直し、冷静になろうと思った。私は感情をコントロールしようと努めた。呼吸を整え、感情が高まらないよう注意した。本の一文字一文字を頭に入れようとした。そうして、私は怒りのぶり返しに集中を乱されながらも、そいつと戦った。

おじさんは先に出ていった。私はほっとしたが、怒りは継続していた。それでも本を読んだ。

私はこのあまりに不愉快な出来事について何も考えないことができなかった。このゲロ人間の台を荷物置き場と認識できない無知っぷり!無知ゆえのあまりに見当違いな怒り!そして、わざわざ当てつけてくるそのどうやっても肯定できないような、ゴミのような大衆的な卑しさ下品さ!どれもが吐き気がするほど、たまらなく嫌だった。なぜ自分がこんなくそみたいな出来事に巻き込まれなきゃいけないのかと思った。

私は激しい鬱憤の中で、あのゲロ人間がなるべく不幸な目に遭いますようにと懇願した。そして、事故にでもあって、異常に苦しむ形で死んでくれますように!

そう、事故!事故だ!こういうゲロみたいな人間に遭遇することというのは、もう事故だ。もう仕方ないことなのだ。なぜかは分からないがこの不愉快なイベントに私が選ばれたのだ。こういうことはもう諦めるしかないのだ!私はそう思って、怒りを何とか平坦にしようとした。また、この台がはっきりとは荷物置き場と確定できないという事もあり、あるいは自分の認識が間違っていたかもしれないという可能性についても考えた。そうして、怒りを手懐けようとした。また、思えば、傘をおられるなどのような実害を被ったわけでもないのだ。こんなことで、怒っていたら、キリがない。そう、事故だ。事故なのだ。仕方ない。もう笑ってしまおう。

しかし、抵抗は虚しかった。それだけ、怒りは激しかった。無限に湧いてくるように思えた。何より嫌だったのは、私がゲロ人間に対し、何も言えなかったことだった。これは荷物置き場ではないでしょうか?その指摘ができなかったこと。もしできていれば、事件は収まっていたかもしれないのだ。ゲロ人間がかえってキレてくるようなら、それにも刃向って、もし殴り合いに発展するようならそれも辞さないくらいの根性を持つべきだった。自分は初めから、恐怖に支配されて、負けるが勝ちだというように、屈服して場を収めることしか出来なかった。その結果がこの怒りである。理性的であろうとする側が折れて、場を収めなくてはいけないとは。そんなことをしても、なんの報酬もないというのに。

私は実際、怒りの頂点にいる時、いっそテーブルを蹴り上げたかったのだ。何百回も。怒りが収まるまで。まるで、お子様だ。思えば私は小さい頃からそうだった。怒りで泣き出すような激しい感情を持っていた。私は何も変わっていず、いまだに言葉で解決するという大人な対応ができないのだ。私は怒りの中で反省もした。怒りに憂鬱が加わった。ああ、こんな感情の激しいのはもうゴリゴリだと思った。なるべく平静に生きたいと思った。

思えば、この出来事はなんて小さく下らないのだろう。荷物置き場に物置かれた?自分の領域に置き傘を置かれた?こんな平和の象徴みたいな何の害もないかわいい小さな傘を?たったそれだけのこと?何でそんなことでこんなイライラしなくちゃいけないの?人は喧嘩をするとき、片方が片方のレベルにまで落ちなくちゃいけない。傘を置かれただけで自分の領域を侵されたというようなゴミみたいに矮小な怒りに当てつけをくらったら、その瞬間、自分もその怒りに対応して、同じように怒りを感じなくてはいけないのだ。なんてくだらない事なのだろう。そんな事を議題に挙げてくるなよ。ふざけんなよ。こんなどうでも良い事で、イライラしたくねえんだよ。

この出来事について、カウンセラーに話をしたら、ストレス解消法を模索してはどうかと提案された。なるほど。納得した。しかし、問題なのは、自分が人と関わると余計ストレスだという事だ。なので、一人で完結するようなストレス解消でなくてはいけない。とりあえず思いつくのは、パンチすること。あるいは、全力疾走。もう疲れ果てるしかないのではないか?こんな馬鹿げたゴミみたいな人間にも屈服し、負けるが勝ちなどといって自慰しているようではもうどこにも希望がない。

父ありき

金欠なので、DVDをレンタルするお金までもけちり、アマゾンプライムで映画を見ている。この前、東京物語を見てから、また昔の日本映画ブームがやってきた。

父ありきは小津安二郎の映画である。父子家庭における父と子の関係が描かれている。この映画は、子供が中学生になる前あたりの話から始まり、途中から突然、子供が成長する話に変わる。まるでドラゴンボールの悟空みたいに突然大人になっているので、最初は話についていけなくなるくらいだった。小津安二郎らしい哀愁はこの映画でも健在で、印象に残る良い場面がいくつかあった。父子が二人で話をする場面はどれもよかった。釣りをしながら話したり、公園?のような見晴らしのいいところで話したり。それだけでいいものがあった。

この映画で少し気になったのは、子供が父をやけに慕っているというところだった。母のいない家庭だからなのかと想像するが、個人的には父親をここまで慕うというのは、感覚的に理解できなかった。よく心理学などで父親は子供にとって超えるべき壁であるとかなんとか、そんなような理論があり、それらの理論を大して信じているわけでもないのだが、そんな風に考える気持ちは理解できる。父親というのはやさしいだけでなく、例えば小説などでは、時に理不尽だったり暴力的だったりする。自分の現実を振り返ってみても、そんなところはあるような気がする。しかし、この映画ではそうゆうことがまるでなく、父はひたすら優しく人格的で、子供はひたすら父を慕う。大人になってからも父と一緒に暮らしたいからといって、仕事を変えようとするくらいだ。この映画はそういう意味で少し道徳的に過ぎるような気もする。美しい部分ばかり、やさしい世界ばかりを描いている気がする。でも子供が父を慕うという気持ちは確かにないわけじゃない。寧ろこの映画を見て、父と子の関係というのは本当はこうなのかもしれないと改めて思わされた。なので、別に道徳的すぎると言って、この映画を断罪する気は毛頭ない。実際、こういう父と子のドラマをみていると清々しい気持ちになれる。ただ良いなと感じられるだけでも、映画として十分ではないだろうか。

この映画では父子の関係が描かれるといったが、実際は、父に焦点が当たっていて、父単独の話が結構出てくる。元教師である父が生徒たちに同窓会を開いてもらう場面があったり。こういった場面もすごくリアルでいい。結局、そういう人生のイベントって感慨深いものだから、こうしてリアルに描かれるといいと思わざるを得ない。会話も何げなくてリアルだ。小津安二郎の映画をいくつか見ていて気付いたのは、基本的に悪い人は出てこないということ。登場人物はみんなちゃんとした人ばかりなので安心してみていられる。

西鶴一代女

最近、東京物語の予告編をYOUTUBEで視聴するのが、自分の中で流行っている。本作の音楽が小津安二郎作品の中でも一番好きなのだが、それが流れる中、俳優たちの予告編用にピックアップされた印象的なセリフが流れていくのを見ていると、それだけで東京物語の雰囲気が味わえて、ほのぼのといい気分になる。たった2分くらいでこんな気分が味わえるのは贅沢なことだと思う。

さて、本題は小津安二郎ではなく、溝口健二である。西鶴一代女を見た。

話は、何歳か分からないが若くはない女が、仏像が並んでいるのを見ているところから始まる。そして、物語は過去へと飛ぶ。そこから女の人生は描かれていく。

女はひたすら世の中に理不尽に扱われ、どんどんと落ちぶれていく。ここまで不幸な人生があるだろうかと疑ってしまうくらいに執拗に彼女は現実に打たれていく。見ていて、ちょっとやりすぎではないかと思った。ある場所に落ち着いて平穏な日々を過ごす場面もあるが、それすら悲惨な場面へのあからさまなフラグでしかない。

彼女はただただ不幸に見舞われる。それらの不幸は不運としか言いようのないこともあるし、世の中というものに翻弄された結果でもある。この映画にはあまりに不幸な場面ばかりが流れ、彼女がそこからどのようにして立ち直ったかや、そこに希望があるとかないとか、そんな類のものは描かれていない。僕は、時間が解決したんだろうと脳内で補完した。それ以外には何も考えられなかった。彼女には友人にようなものもいないように見えたし、そういった暖かい関係もほとんど描かれていないからだ。また、彼女は人生に絶望し、おそらく死にたいのだろうと想像した。彼女がそれでも生きているのは死ねないからという理由に過ぎないと。そうして映画を見ていると、彼女の人生はあまりに哀れに思え、現実はあまりに残酷に思えた。しかし、結局、この映画がやっぱりすごいと思った理由は、その哀れさが人間そのものを描いているように感じられたからだ。いくら理想を描いても世の中には勝てないし、お金は手放せない。どんなに嫌でも生きることはやめられない。そんな人間のやりきれなさが感じられ、それは確かに自分の中にもあるのだ。たぶん、純情な経験を持つ者は、強く共感できるはずだ。

個人的に好きな場面はいくつかあった。一つは、仏像を見て、昔の男たちを思い出すというところ。なんとも芸術的で、かっこいい思い出し方だ。これだけ壮絶な人生を生きてきた彼女なわけだから、昔を思い出すというだけで、これはどうしたって良い場面になる。この類の良さは、もはや映画的に王道といっていいだろう。二つ目は、彼女が、引き離されてしまった自分の子供を追いかけるところ。彼女にとって、子供と引き離されているということがどれだけの悲しみであるか、またやっぱり子供に会いたいというのが親の真実の気持ちであるということが改めて痛切に感じられた。第三に終わりの場面である。この映画は、結構シンプルに終わるが、やっぱり余韻がある感じで終わるのがよかった。

調書

ルクレジオの処女作、調書を読んだ。

作者の作品について調べたところ、初期のものから段々テーマが変わってゆき、後期ではだいぶ違うものになっているようだ。今回読んだ調書という作品は、難解で理解があまりできなかったので、今度は後期の作品に手を出そうかと思う。文章も読みやすくなっているらしいので。

よくわからなかったとはいえ、不思議と読むことができた。というのも、途中何度か意味がわからなくなり挫折しかけたのだが、そこは精読することで、半信半疑のような状態ながらも、何とか乗り越えられた。分からない中にで、たまに、理解できそうな一説に出会うと、それを起点としてまた読もうという気になる。そんな風にして、読み進めることができた。また、この作者は一体何が言いたいんだろうかという疑問も手伝って、読んでいけた。それに、文章が、当たり前だが、上手いので、読んで行けるというのもある。

結局、本当にまるで意味が分からないのは最後の方だけだった。最後が意味わからないので、煮え切らない嫌な気分で読み終えた。この小説はタイトルに調書とあるように、アダムという特異な男の生態を淡々と述べてゆくという形で進行する。

この男のおかしな行動はほとんどユーモラスで、こんな人間が存在するとは思えないほどである。でも、彼が何か強い目的を持って、行動していることは、読んでいるうちにわかる。この辺りあまり理解できてるとはいえないが、彼の行動理由は全く理解できないわけでもない。生きてることのどうしようもない苦しみから逃れたいというのは理解できる。そこから、積極的に何か陶酔を得るために行動しようとするのは、彼の個性だと思うが。

彼は最後に取り調べを受ける。精神病ではないかと診断にかけられる。研修生たちの練習相手に選ばれるというのは、なんとも悲しい。結局、彼は精神病だったのかどうか、それはよく分からない。小説でもそれは謎のままになっている。頭のいい唯の狂人か、それとも本当に天才で、救世主的な存在かもしれない。そう思わせてくれるところが、この小説で1番、面白かったところ。このアダムという人間が死んでしまったら、何か酷く貴重な個性を無くしたかのように思えてしまうかもしれない。もちろん、こんな人間、いるとは思えないのだが。

あったかい

最近、コロナの影響で、窓を開けてることが多い。大抵、暖房が入ってるけど、窓のそばで座ってると、風が入ってきて、けっこう寒い。あったかいと寒いが同時に味わえて、気持ち悪い。

この前、とある休み時間にそうやって、やることもないままぼーっと座ってたら、やっぱり少し寒くて、気づくと自分の体を触ってた。自分の体の暖かさに触れて、手を温めようという、自己完結した行為である。

それで、色々触って気がついた。ベルトのバックルが一番温いということに。お腹の温もりが金属に伝わっているようだ。

それからというもの、たまにバックルを触って温もりを確認している。

映画「愛を読む人」

リトルダンサー」を見て、すごい良かったので、同監督の「愛を読む人」を見た。

後から知ったが、朗読者というタイトルの原作があるらしい。そう言われてみると、確かにと納得した。話が良くできている。

唯、その話がよくできている点に、逆にご都合主義を感じてしまった。そのせいで、物語を現実として捉えられなくなってしまった。

結果、ちょっと物足りない気がした。まあ、こんな感じの映画かっていう感想でした。