宇宙のことが心配です

好きに色んなことを書きます。日記が中心です。本、映画、漫画、アニメなどで暇を潰す事が多いので、その手の感想も書くかもしれません。

不愉快な出来事

先日、非常に不愉快な出来事があり、本当はそんなことを書きたくなかったのだが、書かざるを得ないくらい嫌な気持ちが溜まったので、書くことにする。

雨の日。とある喫茶店。店内は混んでいて、席は一つか二つしか空いていない。窓際の1人用の席に座った。隣には人がいて、精神的に窮屈な感じ。

テーブルとテーブルの間に、意味深な台があった。その台はテーブルと繋がっている。私はその台をおそらくテーブルに付いた荷物置き場だろうと考えた。それで、その台に置き傘を置いた。

すると、右隣のおじさんが私の方を意味ありげに見ている。私は瞬時に察知した。これは、何か反感を買ってるなと。おそらく、おじさんはこの台を荷物置き場だと思っていず、テーブルとテーブルの間にある何か意味深なデザインフルなものだと思っていて、そのために、私が傘を置いたのを自分の領域が侵されたように思い、不快感を感じているのだと。

私は恐る恐るという気分になったが、それでも、傘を置いたままにして、本を読み始めた。私の中で、これは荷物置き場だという認識は揺らがず、なので自分は正しいと思った。

本を読見始めてすぐ、おじさんは椅子の背に掛けていた自分のレインコートをわざわざ僕の傘の上に置いてきた。完全に当てつけである。私は激しく憤りを感じた。私の言い分は、お前の荷物置き場も右側に付いているだろうが!というもの。

私は憤りを感じていたものの、同時にそれと同じだけの人見知り的な恐怖あるいはこのおじさんに何か言って反対にキレられたらかなりしんどいことになるという思いにも駆られていた。私は激しい感情のままにレインコートの下から傘を引ったくるように取り出して、どこにも置き場がないので、仕方なく椅子の下の地面に置いた。そうして、また本を読み始めた。おじさんには動きはなかった。

私は本を読み始めたものの、怒りで全く集中できなかった。やるせなくなり、もう店を出ようと衝動的に思いたち、アイスミルクティーをとんでもない勢いで吸い始めた。しかし、その途中で、考え直し、冷静になろうと思った。私は感情をコントロールしようと努めた。呼吸を整え、感情が高まらないよう注意した。本の一文字一文字を頭に入れようとした。そうして、私は怒りのぶり返しに集中を乱されながらも、そいつと戦った。

おじさんは先に出ていった。私はほっとしたが、怒りは継続していた。それでも本を読んだ。

私はこのあまりに不愉快な出来事について何も考えないことができなかった。このゲロ人間の台を荷物置き場と認識できない無知っぷり!無知ゆえのあまりに見当違いな怒り!そして、わざわざ当てつけてくるそのどうやっても肯定できないような、ゴミのような大衆的な卑しさ下品さ!どれもが吐き気がするほど、たまらなく嫌だった。なぜ自分がこんなくそみたいな出来事に巻き込まれなきゃいけないのかと思った。

私は激しい鬱憤の中で、あのゲロ人間がなるべく不幸な目に遭いますようにと懇願した。そして、事故にでもあって、異常に苦しむ形で死んでくれますように!

そう、事故!事故だ!こういうゲロみたいな人間に遭遇することというのは、もう事故だ。もう仕方ないことなのだ。なぜかは分からないがこの不愉快なイベントに私が選ばれたのだ。こういうことはもう諦めるしかないのだ!私はそう思って、怒りを何とか平坦にしようとした。また、この台がはっきりとは荷物置き場と確定できないという事もあり、あるいは自分の認識が間違っていたかもしれないという可能性についても考えた。そうして、怒りを手懐けようとした。また、思えば、傘をおられるなどのような実害を被ったわけでもないのだ。こんなことで、怒っていたら、キリがない。そう、事故だ。事故なのだ。仕方ない。もう笑ってしまおう。

しかし、抵抗は虚しかった。それだけ、怒りは激しかった。無限に湧いてくるように思えた。何より嫌だったのは、私がゲロ人間に対し、何も言えなかったことだった。これは荷物置き場ではないでしょうか?その指摘ができなかったこと。もしできていれば、事件は収まっていたかもしれないのだ。ゲロ人間がかえってキレてくるようなら、それにも刃向って、もし殴り合いに発展するようならそれも辞さないくらいの根性を持つべきだった。自分は初めから、恐怖に支配されて、負けるが勝ちだというように、屈服して場を収めることしか出来なかった。その結果がこの怒りである。理性的であろうとする側が折れて、場を収めなくてはいけないとは。そんなことをしても、なんの報酬もないというのに。

私は実際、怒りの頂点にいる時、いっそテーブルを蹴り上げたかったのだ。何百回も。怒りが収まるまで。まるで、お子様だ。思えば私は小さい頃からそうだった。怒りで泣き出すような激しい感情を持っていた。私は何も変わっていず、いまだに言葉で解決するという大人な対応ができないのだ。私は怒りの中で反省もした。怒りに憂鬱が加わった。ああ、こんな感情の激しいのはもうゴリゴリだと思った。なるべく平静に生きたいと思った。

思えば、この出来事はなんて小さく下らないのだろう。荷物置き場に物置かれた?自分の領域に置き傘を置かれた?こんな平和の象徴みたいな何の害もないかわいい小さな傘を?たったそれだけのこと?何でそんなことでこんなイライラしなくちゃいけないの?人は喧嘩をするとき、片方が片方のレベルにまで落ちなくちゃいけない。傘を置かれただけで自分の領域を侵されたというようなゴミみたいに矮小な怒りに当てつけをくらったら、その瞬間、自分もその怒りに対応して、同じように怒りを感じなくてはいけないのだ。なんてくだらない事なのだろう。そんな事を議題に挙げてくるなよ。ふざけんなよ。こんなどうでも良い事で、イライラしたくねえんだよ。

この出来事について、カウンセラーに話をしたら、ストレス解消法を模索してはどうかと提案された。なるほど。納得した。しかし、問題なのは、自分が人と関わると余計ストレスだという事だ。なので、一人で完結するようなストレス解消でなくてはいけない。とりあえず思いつくのは、パンチすること。あるいは、全力疾走。もう疲れ果てるしかないのではないか?こんな馬鹿げたゴミみたいな人間にも屈服し、負けるが勝ちなどといって自慰しているようではもうどこにも希望がない。