宇宙のことが心配です

好きに色んなことを書きます。日記が中心です。本、映画、漫画、アニメなどで暇を潰す事が多いので、その手の感想も書くかもしれません。

西鶴一代女

最近、東京物語の予告編をYOUTUBEで視聴するのが、自分の中で流行っている。本作の音楽が小津安二郎作品の中でも一番好きなのだが、それが流れる中、俳優たちの予告編用にピックアップされた印象的なセリフが流れていくのを見ていると、それだけで東京物語の雰囲気が味わえて、ほのぼのといい気分になる。たった2分くらいでこんな気分が味わえるのは贅沢なことだと思う。

さて、本題は小津安二郎ではなく、溝口健二である。西鶴一代女を見た。

話は、何歳か分からないが若くはない女が、仏像が並んでいるのを見ているところから始まる。そして、物語は過去へと飛ぶ。そこから女の人生は描かれていく。

女はひたすら世の中に理不尽に扱われ、どんどんと落ちぶれていく。ここまで不幸な人生があるだろうかと疑ってしまうくらいに執拗に彼女は現実に打たれていく。見ていて、ちょっとやりすぎではないかと思った。ある場所に落ち着いて平穏な日々を過ごす場面もあるが、それすら悲惨な場面へのあからさまなフラグでしかない。

彼女はただただ不幸に見舞われる。それらの不幸は不運としか言いようのないこともあるし、世の中というものに翻弄された結果でもある。この映画にはあまりに不幸な場面ばかりが流れ、彼女がそこからどのようにして立ち直ったかや、そこに希望があるとかないとか、そんな類のものは描かれていない。僕は、時間が解決したんだろうと脳内で補完した。それ以外には何も考えられなかった。彼女には友人にようなものもいないように見えたし、そういった暖かい関係もほとんど描かれていないからだ。また、彼女は人生に絶望し、おそらく死にたいのだろうと想像した。彼女がそれでも生きているのは死ねないからという理由に過ぎないと。そうして映画を見ていると、彼女の人生はあまりに哀れに思え、現実はあまりに残酷に思えた。しかし、結局、この映画がやっぱりすごいと思った理由は、その哀れさが人間そのものを描いているように感じられたからだ。いくら理想を描いても世の中には勝てないし、お金は手放せない。どんなに嫌でも生きることはやめられない。そんな人間のやりきれなさが感じられ、それは確かに自分の中にもあるのだ。たぶん、純情な経験を持つ者は、強く共感できるはずだ。

個人的に好きな場面はいくつかあった。一つは、仏像を見て、昔の男たちを思い出すというところ。なんとも芸術的で、かっこいい思い出し方だ。これだけ壮絶な人生を生きてきた彼女なわけだから、昔を思い出すというだけで、これはどうしたって良い場面になる。この類の良さは、もはや映画的に王道といっていいだろう。二つ目は、彼女が、引き離されてしまった自分の子供を追いかけるところ。彼女にとって、子供と引き離されているということがどれだけの悲しみであるか、またやっぱり子供に会いたいというのが親の真実の気持ちであるということが改めて痛切に感じられた。第三に終わりの場面である。この映画は、結構シンプルに終わるが、やっぱり余韻がある感じで終わるのがよかった。