宇宙のことが心配です

好きに色んなことを書きます。日記が中心です。本、映画、漫画、アニメなどで暇を潰す事が多いので、その手の感想も書くかもしれません。

映画「エターナル・サンシャイン」の感想

エターナル・サンシャイン」を見た。おもしろ点数:90/100点

<あらすじ>

ジョエルという男がクレメンタインという女と付きあっている。ある時、喧嘩をしてしまい、衝動的なクレメンタインはジョエルについての記憶を消す手術を受ける。それを知ったジョエルはショックを受け、悩んだ末、自分もクレメンタインの記憶を消すことにする。

<感想>

チャーリーカウフマン脚本の作品で、この人の作品が好きなので、前から見たいと目を付けていた。

まず、ジョエルを演じている男がジムキャリーで、軽く驚いた。パッケージからはジムキャリーだとははっきり分からなくて、見始めてから気づいたのだ。ジムキャリーは明るいキャラクターを演じるイメージなので意外だった。この映画の主人公ジョエルはチャーリーカウフマンよろしく陰鬱な男だ。多分、今まで見たジムキャリーの中で一番暗いんじゃないだろうか。ただ、暗いとは言っても、この映画にジムキャリーは結構似合っていると思う。暗いとは言っても、チャーリーカウフマンの映画はコメディだし、根が優しい雰囲気が似合っていた。

チャーリーカウフマンの映画は大抵、現実と頭の中の世界がごっちゃになってくる。だから途中で訳が分からなくなってくる。この映画もその法則に外れていない。ただ、比較的話は追いやすく、一回見ただけでも大体理解できる。映画の仕掛けとしては、「インセプション」とかに近い。人間の夢や記憶の世界が映像になって流れてくる。だから、現実ではありえないことが突然起きたりする。また、現実世界と夢の世界の話が並行するため、始めはどっちが現実で夢か分からなくなったりする。そこが面白い。よくわからなくて戻ってみると細かいところに伏線が張られているのに気づいて、また面白かったりする。そんなこんなで注意してみていると、すごく話が精緻に練られていることが分かる。ちなみに「脳内ニューヨーク」が特に複雑で面白いと思う。

チャーリーカウフマンらしい分かるようでよく分からないシュールな雰囲気は、この映画でも漂っている。「ハァイ!」「ん?・・・なんか言った?」「・・・ハァイって言っただけ」とか。不自然なような自然なようなよくわからないやり取りだが、この独特さがすごくて、癖になる。チャーリーカウフマンの映画内のキャラクターは下品で適当であほらしいのが多いのだが、それでいて知的な雰囲気があるから不思議だ。下品な言葉すらも全く意味がないわけじゃなくて、どこか意味があるように思わせてくる。

この映画は、嫌な記憶を消していく中で良い記憶も消えていくということにジョエルが気づくところから、また話が盛り上がっていく。感動的な場面もある。盛り上がった後にも話がまた続いて、どうなるのだろうと話を追ってしまう。そんな感じで話がよくできている。とても面白かった。

映画「パンズ・ラビリンス」の感想

パンズラビリンスという映画を見た。おもしろ点数:80/100点

 

<あらすじ>

内戦で仕立て屋の父を亡くした少女オフェリアが、新しい父に会いにいくために妊娠中の母と一緒に旅をしているところから話が始まる。

新しい父との暮らしに苦しみを感じるオフェリアに、おとぎ話の世界への扉が開かれる。オフェリアは現実から逃れるようにして、おとぎ話の世界で王女になるための試練を受けていくが・・・

 

<感想>

監督がギレルモ・デル・トロで、シェイプオブウォーターの人である。シェイプオブウォーターは見たことがないが、友達の母親が見たらしく、それによると気持ち悪い映画らしい。この話を聞いていたので、このパンズラビリンスという映画も気持ち悪い要素はあるだろうと予想していた。

(私にとって気持ち悪いというは悪い要素ではない。寧ろそこに興味が出て、同作品を見たいと思っていた。)

おそらく、不思議の国のアリスオズの魔法使いの気持ち悪いバージョンだろうと思っていた。実際見た結果、この予測は当たっていた。だが、少し違っていた。この違いが自分の気に入らない方向で違っていたので、最終的には同作品があまり好きになれなかった。

つまり、おとぎ話の国へ誘う案内役が気持ちの悪い虫であっても、王女になるための試練で気持ち悪くウエーっとなるのは良いのである。これはジェットコースターが、怖いのが楽しいというのと同じように、楽しいのである。しかし、拷問を代表されるような非人道的な残虐行為が、見ていて嫌だった。(この映画は内戦の最中という設定であり、そのためこのようなシーンが出てくるのだ)これは私が思っていた気持ち悪いとは違っていた。確かに気持ち悪いのだが、こういう気持ち悪さは期待していなかった。私の期待しているのは、デザインの気持ち悪さとかそういう種類のものだ。

現実が理不尽なものであるということのために、これほどの描写が必要なのかと疑問に思った。これでは話が逆に単純になってしまってないかと感じた。また、あまりに執拗に非人道的な場面が続くので、逆に不自然に見えもした。このような残虐行為が実際行われていたのかどうか知らないが、殺人や拷問をここまで冷静にできるものなのだろうか。それとも、戦争中ではあんな精神状態が可能になるのだろうか?(オフェリアの新しい父親はやばい人なのである)

まあ、そんな不満点はあったが、でもおとぎ話系の気持ち悪いものが見たいという願望は満たされて、見ごたえはあったので、80点くらい。

普通の一日

 午前中にアニメを4本見て、夕方に2本見た。アニメは一つ20分くらいで、何個か見てもそんなに時間がかからないのが良いところだ。飽きっぽい自分としては映画一つ見るより、色々なアニメを一本ずつ見た方が気分が変わって良い。最近は虚無感のせいでアニメに集中できずにいたが、こうして真面目に見ることができればどの作品も面白いものだと気づく。やはり集中して見てみるということが楽しむことには不可欠なのだろう。

 時間つぶしに「赤毛のアン」を原文で読んでいる。一度読み始めたら2ページくらい読んでいる。今、一章が終わった所だ。児童文学とはいえ、文章は結構難しい。何が分からないかというと、まずupとかoffとかの前置詞の捉え方が分からない。動詞と合わさって一つの意味になるものはそのまま訳せばいいが、そうならない場合はupとかoffの意味が動詞と関係しているのか単独で意味を持つのかよくわからない。次に、文章が長くなってくると文章の構造がわからない。大抵、途中でカンマが打たれて文節が挿入されるが、それがどういう風に主文と関わっているのかが難しい。また、that's what.とかそういうのが全く分からない。慣用表現だと思うのだが、調べても分からない。分からない所が多いのだが、そこは適当に飛ばして読んでいる。とりあえず男の子を孤児院から引き取ることになって、レイチェルがそれに驚いたってことくらいは分かった。

 空白な時間ができると、自分の仕事探しについて考える。理系職として会社員を目指すことを考えると、面接のことがまず頭に浮かんでくる。失敗すると考えることで実際に失敗するだろうし、それを適当に流すこともできないだろう。入社しても仕事が続くイメージが描けないから、心中で無理だと思いながら、口では志望動機を言うことになるだろう。しかし実際こんな状態でも受かることは不可能ではないだろう。こういう負の心理はきっとみんなが持っているはずでいわば普通の恐怖だからである。わたしの場合はそれが極端なため葛藤も激しくなるが、別に悪いことをしているわけではない。だから面接に耐えていけばきっと受からないわけじゃない。しかし面接など良くも悪くも試験のようなものだ。問題は実際働くことが継続できるかだ。会議とか雑談とか叱責とかそういうことでどんどん苦しくなっていくだろう。そんなことで感情的になっていたらどうしようもないということで感情的になるのだから、どうしようもない。結局、自分には無理だという結論になる。自分で意志決定する仕事は、他人からの叱責恐怖でまともにできなくなる。すると単純作業系の仕事しかない。しかしそこでの人間関係は大丈夫か。それなら本当に自分に耐えられるのか。それができなければもう仕事などできない。考えると苦しくなってくる。しかし考えなければどうにもならない。生きることは苦しいことだ。楽しいから生きていくのであれば自殺してしまう。苦しいから生きていくのだ。

風呂掃除

 アニメとか本で時間をつぶす日々を送っている。やる気はでなくても集中して作品を鑑賞すれば、なんだかんだ面白い。しかし面白いのはそのときだけで、何もしていないとすぐ虚無感に陥ってしまう。それで次回を楽しみにするとまではいかず、毎回気概を立ち上げ、作品を鑑賞している。色々なことをして時間をつぶしていれば虚無感を忘れられるが、休んでいるとすぐ憑りつかれる。だから頭の中をずっと何かで埋めていないといけない。それで神経が疲れてしまう。結局この虚無感が出てくる限りどうにもならないらしい。この感じだと、いつか自殺するかもしれないなと他人ごとのように思った。

 今見ているアニメはどれも面白いが、中でも「ふしぎの海のナディア」が一番面白い。原作が海底二万マイルだということに今更気づいた。作品の雰囲気から元が文学作品という気が全然しなかったから気づかなかった。海底二万マイルがどんな話か分からないが、あまり原作通りではないような気がする。あとOPの曲をなぜか坂井泉水の曲だと思っていた。それも今更違うと気づいた。曲の雰囲気で勝手にそう思ってしまったらしい。

 「ハックルベリー・フィンの冒険」を読み始めた。児童文学だから読みやすいし、それでいて読みごたえもある。19世紀前半が舞台となっているので常識の感覚が全然違うのだが、普通に読める。普通に面白い。

 母に頼まれ、風呂掃除もした。パンツ一丁になり、洗剤を壁に吹きかけ、スポンジでこすった。壁の継ぎ目とか隅っこの方が汚れているので、注意して洗った。やり始めると持ち前の完璧主義が顔を出して、結構しっかりと洗った。汚れが落ちていくのを見ていると少し快感がある。掃除をしながら、自分は清掃の仕事に向いているかもしれないと思った。仕事については色々と考えているのだが、自分の精神状態を想うと、何を考えてもまともな考えになる気がしなくて、そこまで真剣にならない。また考えても、仕事のシミュレーションをすると結局自分には無理に決まっていると思ってしまい、考えが停止する。例えば、前職の経験からエンジニアになることを考えても、会議とか対人関係の苦しさで駄目になるのは間違いないと思ってしまう。引きこもりでもできる仕事を検索しても、それすら自分が働く姿をシミュレーションすると全部無理だという結論になる。中でも一番何とかなりそうなのが清掃の仕事なのだが、その場合仕事の単調さに耐えていけるかという新たな心配が出てくる。それで対人の苦痛か単調さの苦痛かという二つの道の前で悩むことになる。どちらも地獄の道という気がする。どちらへ進んでも地獄からは逃れられない。時には対人の苦痛に向かっていこうと考えるときもある。そんなときは大抵、自分が対人関係の中でどんどんノイローゼを加速させることを忘れてしまっている。それで時にはそのことをふと思い出して、やはり無理だとなり、単調さの苦痛に耐える道が現実的だろうと思う。二つの道の前で考えがふらふら切り替わっている。

 喫茶店でネットサーフィンをしていて、カミュのことを検索した。それでカミュの不条理に対する思想を読んでいて自分の思っていることに少し似ているということに気づいた。この頃わたしは不条理の苦痛に耐えていくことに意味があると考えていて、カミュは不条理を正視する反抗という態度に意味を見出していた。昔、「ペスト」を読んだとき、何となく作品中に示される生き方は一つの答えであるような気はしていた。当時はその生き方はあまりにモラルが高くて超人的にも思えたのだが、今になってみるとニーチェとか他の哲学者の言っていることよりは、人間らしいやり方に思えた。もう一度「ペスト」を読んでみようかと思った。それか「シシューポスの神話」を読もうか。とにかくカミュにまた興味を持った。

「銀の匙」読了

 「銀の匙」を読み終えた。相変わらず集中できるところとそうでないところがあって、全体的にはあまり頭に入ってこなかった。どうもエッセイのような文章が続いていくと、退屈になってしまうようだ。それに文章がきれいで軽やかなのが自分には向いていなかったかなと思う。何故か頭に入ってこなかった。逆に印象に残ったのは後編の始めのところ。主人公の先生に対する態度が特徴的だ。他の生徒は先生が癇癪交じりに怒り出せばびびって静かになってしまうが、主人公は平気で笑っている。ある日、校長が主人公に「先生が怖くないか」と聞くと、主人公は「いいえ、ちっとも」と答える。何故かと聞かれると主人公は「先生だってやっぱり人間だと思うから」と答える。これは主人公の道徳観が優れているということだと思う。主人公は大人の嘘に敏感で、他にも先生に対して素朴な疑問をぶつけたりする。それはどれも正しい難しい疑問で、先生も適当にごまかすしかできない。こういうところを読むと、主人公がはみ出し者で面倒なタイプの人間というのがよくわかる。同時に、感受性が高くて、苦悩の多い人生を送っている事も伝わってくる。主人公は「日本は戦争に負けると思う」なんてことまでみんなに言ってしまう。この場面はちょっと驚いた。戦時中にそんなことを言って大丈夫なのだろうか。とにかく、わたしには主人公の感情的だけど芯の強いその性格が印象的に思えた。わたしは怒られる恐怖がかなり強いタイプで、子供の頃、先生がかなり苦手だった。だから主人公のように先生を一人の人間だと捉えられることは素直に感心した。それと、この主人公は結構楽観的だ。そこも良いなと思った。主人公が度々自惚れに陥って反省するのはユーモラスで面白かった。主人公は憂鬱症だという記述が一度だけ出てくるあたり、暗い性質をもっているのが分かるが、小説は基本的に軽やかな雰囲気だ。筆者の楽観的なところが出ているのだろう。最後に、多感な主人公と周囲の人間との関わりが、心象風景を交えて等身大で描かれているのがよかった。特に人との別れのシーンはどれもよかった。先の先生もある日戦争に行ってしまうがそのシーンには感じ入るものがある。それでいてさらっと短く描かれているのも良いなと思う。あと完全にどうでもいいが、遠山っていう言葉いいなと思った。

 あと他に今日したことと言えば6本のアニメを一話ずつ見た。このアニメを見るのと読書は自分の仕事だと思うことにした。最近思うのだが、楽しいというのには意志の力が関わっている。気持ちだけではなく、何かを楽しもうという気概がなければ楽しくはなれないのだ。楽しいという気持ちだけを理由として行動していると、段々楽しめなくなってくる。楽しい事より苦しい事の方が多いのが普通だからだ。だから苦しいときには意志の力でもって、楽しいを生み出さなくてはいけない。わたしの場合、虚無に陥りがちだから、なおさら何かを楽しもうと思わなくてはいけない。だから、アニメを見たいという気持ちはないが、仕事をするくらいの意識で、見ていくのだ。

 あと、クラロワは消した。以前から、負けが続く時に激しい無力感があるので、何度もやめようと思っていたのだ。無力感があって苦しいのにクラロワをプレイしてしまう自分への激しい絶望もあった。今までなんだかんだやめずにいたが、もう止めた。昔、スプラトゥーン2をやめたのと同じことだ。ある日、わたしはスプラトゥーン2にあまりに苛々して、ゲーム機本体を破壊したのだ。当時は仕事のストレスも結構あったから、そういうことをしてしまったのだったと思う。壊す瞬間は、「これを壊さない限り、俺はこのゲームを止めることができない」という絶望感があった。今回、クラロワを止めて、教訓として、この手の面白いがゆえに悔しさも半端ではないゲームは、もはや楽しくないと考えることにした。自分のように感情の激しい不安定な人間は、それゆえにこういう快楽に縛られがちだが、それでは苦しくなるばかりだ。わたしはもうそういうものとは縁を切る。もう二度とこの手の感情を強く揺さぶられるものには手を出さない。

 6本のアニメは義務的に見たけど、結構面白い。やはり真面目に見るというのは大事だ。真面目に集中して見るということも楽しさの要因の一つだ。6本のアニメ以外にも「N・H・Kにようこそ」も見た。こっちは義務ではなく、一度見ているので何か別の作業をしながら適当に見た。なんかこのアニメは見ていると落ち着く。作品に流れている哀愁が自分にはちょうどいい感じなのだ。作品を見て改めて思ったのは、この主人公は引きこもりの中でも結構何とかなる方のタイプということだ。人に当たり散らしたりしないし、なんだかんだ山崎とか岬ちゃんとは話せているわけだし。常識的な社交の感覚は持っているのだ。最終的に飢えの恐怖から仕事を始められるのも納得がいく。この主人公は自殺するタイプではない。

こなすべきタスクを設定

 「銀の匙」を読み始めた。後編まではいかなかったが、その手前くらいまで読んだと思う。銀の匙を通して伯母とのことがよみがえるというエピソードは良かった。その後の伯母との細かいエピソードはほとんどエッセイのようだった。正直、この部分は退屈に感じてしまい、文字が全然頭に入ってこなかった。分からないからといって何度も同じところをなぞるのも面倒だったので、そのままどんどん読み進めていった。これではだめだと思ったが、主人公が学校へ入ってから面白くなったのでそんな杞憂も消え失せた。

 暇が苦痛なので、これから6本のアニメを一話ずつ同時並行で見ていこうと思う。アニメはネットを見ながら面白そうなものを選んだ。(↓)

・大正野球娘

ふしぎの海のナディア

精霊の守り人

舟を編む

灰羽連盟

東のエデン

 さらに松本人志のドキュメンタル8を少しずつ見る。それと弟の勧めにより軍司ミノルのブレスオブワイルド実況を少しずつ見る。またナンプレとかをやるくらいならもっとためになることをやりたいと思い、「赤毛のアン」を原文で読んでいくことに決めた。一日少しずつだ。あくまで暇つぶしという意識をもって行動する所存だ。そうしないと続けられないだろう。

 とにかく何とかして時間をつぶしまくるのだ。クラロワもやっていくが、これはもうあてにしない。正直、負けまくって精神が煮えくり返るので、あまりやらないと方がいいと思った。感情の激しい自分なので、精神が不安定になりそうなものはなるべく避ける方向でいく。

「大いなる遺産」読了

 空の高いところに霧のような雲がかかっていて、日は照っていたがいつもよりは涼しい日だった。昼過ぎに図書館へ行った。「大いなる遺産」を返却した。最後の百ページは思ってたより盛り上がらなかった。盛り上がるというよりしんみりする方向の話になっていた。ジョーやビディの善人ぶりには感じ入るものがあった。ピップとエステラで話が終わるのもよかった。「大いなる遺産」は一日百ページで8日かかった。ディケンズの小説を初めて読んだが以外にドラマチックだった。自伝的小説というけれど、むしろかなり創作的だと思う。全体を通してエステラとジョーが印象に残った。他にも面白いキャラクターがたくさん出てきてよかった。返却した代わりに「ハックルベリーの冒険」「銀の匙」を借りた。まずは「銀の匙」から読もうと思う。一度、短めの小説を読みたい。

 その後、喫茶店へ行き、ミルクティーを飲んだ。飲みながら、ネットサーフィンをしたり、ぼーっとした。時間はあったがやりたいことが無かった。すぐに虚無に陥り、苦しくなった。苦しいと思うたびに試練だと思って耐えた。何もしないのではなく、何もしないということをするのだと考えた。虚無感から何かをしても結局面倒なことになるのは経験で分かっている。誤った方向へ歩いていき、元の場所へ戻ってくるのにまた時間がかかってしまうことも多い。それならば何もしないでその場所へ留まっている方がいい。何もしないというのはおかしなことをしないということでもあるのだ。それに考えてみれば、何もしないよりも何かをすることの方が容易い。行動するというのはそういう意味では逃避行為になる。勿論、普通は行動が逃避ではない場合の方が多いと思うが、自分のように虚無に陥っている人間には逃避になることが多いと思う。虚無から逃げ出すために行動するというわけだ。しかし安易な方へ逃げてはいけない。何もしないということが苦しいのであればそれに耐えるべきだ。何もしないのが安心だと思えるようになるまで待つべきだ。今までは病みに対して何も基準がなかったが、これを基準にすることができるだろう。つまり何もしないことが苦痛に感じ出したらそれは病みであるということだ。もしそうなったら自分は病んでいると自覚しなくてはいけない。このことを肝に銘じてこれから注意深く生きていこうと思う。

 また、虚無に陥っているときの読書にも危険が潜んでいると思う。虚無の中では何かをしなくてはという想いにかられる。わたしの場合、対人に苦痛があるものだから、大抵は本を読んだりすることになる。しかし本の中の登場人物は大抵、精神の健康な人間として描かれている。そのためほとんどの本に共感が難しくなってしまう。だから結局自分のような虚無を内包している本を選ぶことになる。そうして虚無に共感していく内に虚無に陥っていく。虚無というのは元々何かに依存しやすいから、そうして暗い本につかってしまい、どんどん負のループが強くなってしまう。自分の精神の病みについて自覚があれば、こういうことに注意深くなるのだろうが、わたしはあまり自覚を持っていなかった。そのためドツボにはまってしまった。病みを自覚したら、あまり虚無的な本は避けた方がいい。普通の本にも共感できないのであればもう何もしない方がいい。ニヒリズムというのは芸術家の特権みたいなものだ。芸術家だからそれを生かすことができる。しかし普通の人間はそれでは生きていけない。だからニヒリズムは注意深く避けるべきだ。そんなことを考えた。

「N・H・Kにようこそ」を再視聴

 喫茶店へ行って「大いなる遺産」を百ページ。あと一日で読み終わる。最後に盛り上がりがありそうな予感がする。結構娯楽性があるのが意外だ。

 暇な時間のネットサーフィンで、これから読みたい本をリストアップしてみた。最近、自分にニヒリズムの傾向があるということが分かったので、少し注意深く選んだ。自分としてはニヒリズムから離れていきたいので、そういうものを内包した小説は避けようという訳だ。といっても読む前から内容がはっきりとは分からないので、あまり変わらない。とりあえず、ドストエフスキーの小説は避けることにした。カポーティの「冷血」は暗そうなので迷ったがリストに加えた。暗くてもニヒリズムとは違いそうな気がしたからだ。そんな感じで注意深く選んでいった。結局、今日作ったリストは以下のようになった。

百年の孤独

怒りの葡萄

・嘔吐

八月の光

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

・冷血

ドン・キホーテ

素晴らしい新世界

・夜間飛行

飛ぶ教室

ハックルベリーの冒険

「嘔吐」はちょっとやめたほうがいいかもしれないと思いつつ、入れてみた。結局、読まないかもしれない。悩み中である。「夜間飛行」「ハックルベリーの冒険」「飛ぶ教室」は今までの自分だったら読みたいと思わなかった本たちだ。わたしは自身のニヒリズムを意識しないでいたせいで、ニヒリズムに浸ることを何とも思っていなかった。自分の興味を誘うものを選んでいくとドストエフスキーとかに行き当たることが多かった。しかし今はニヒリズムから脱却したいと考えている。だからわたしには、そういう脱却のために有用な考えや生き方が必要なのだ。それが上の三つの本たちという訳だ。

 「N・H・Kにようこそ」のアニメ版を見た。クラロワやナンプレをやりながら見た。どちらかというとクラロワとナンプレをやるときのBGMとしてアニメを見た。そんな見方では、見たとは言い難いが、わたしはこのアニメを一度見ているので、何となく話に触れているだけでも楽しくはあった。改めてこのアニメを見てやっぱり音楽がいいなと思った。OPもEDも途中のBGMも全部がいい。特に岬ちゃんが歌うEDのイントロが流れるとしんみりする。勿論、踊る赤ちゃん人間も素晴らしい。音楽以外にも、対人恐怖気味の自分には引きこもりの苦しさが切実に迫ってくる。主人公がダメ人間であることは間違いない。心が弛んでるからダメなんだと責められても何も言い返せない。しかしそれは性格であって仕方のないことでもある。主人公は馬鹿なことを色々と引き起こす。それはアニメを盛り上げるためでもあるが、リアリティもある。自分も形は違えど世を渡るうえでの馬鹿なことを色々してしまった。だからそういう主人公のあほらしさはコメディであると同時に悲しさも帯びて迫ってくる。主人公は引きこもりを抜け出すとき「お金が無くて、死ぬ勇気もなかったら、働くしかないんだ。」というセリフを吐く。それは当たり前のことなのだが、それを想った瞬間というのは初めて理解したという感覚なのだということが伝わってくる。引きこもったり、何かから逃げている時には、頭では駄目なことをわかっているつもりなのだ。しかし本当に自分を追い詰める事は難しいものだ。自分に対して甘い人間はそうして恐怖の前に堕落していく。そういう人間はやっぱり駄目な人間なのである。それは間違いない。しかしそういう人間の生きる悲しみがこのアニメには流れている。それを見ていると切実な気分になるのだ。

久しぶりの曇り

 久しぶりの曇りだった。涼しかったが湿度が高かった。昼過ぎに喫茶店へ行こうとしたら、ちょうど激しい雨が降ってきて、行くのを止めた。仕方がないので家で「大いなる遺産」を百ページ読み進めた。遺産を与えてくれた人物が誰かが判明し、それについてひと悶着起きているところまで進んだ。読み終わったころに雨が止んだ。特に何もすることが無くなると苦しくなった。結局意味もないのに喫茶店に出かけた。喫茶店ではクラロワをやったり、ネットサーフィンをした。クラロワは勝てなくて激しい無力感に陥った。ネットサーフィンは、ただ時間をつぶしているだけだと思って苦しかった。喫茶店を出ると天気は晴れ間があるくらいに回復していた。家へ帰ってから今度はマラソンしに出かけた。夜、何もやることがなく苦痛だったが、携帯にナンプレをダウンロードした。達人級をプレイしているとクリアするのに一時間以上かかって良い時間つぶしになった。時間をつぶしているという事実に思い当たるたびに苦しかったが、耐えていった。何をしても無駄だという感覚も激しくて中々物事に集中できない。喫茶店でネットサーフィンしている時にこういう感覚はニヒリズムというらしいと知った。ニヒリズムは知っているつもりだったが、実は全然分かっていなかった。まさか自分のことだったとは思わなかった。ニーチェは全てが無意味だと知ってもなお積極的に行動していくことを説いているようだったが、自分にはそれはあまりに厳しい生き方に思えた。自分の場合、やはり全てが無意味に思えるその考え方自体を強制していくしかないように思える。そして自分は今それをしている最中という訳だ。明日も同じ苦痛に悩むことになるのだと思うと苦しくなる。そういう苦痛に陥っていると、時間がひたすら長く感じるものだ。それがまた苦痛を大きくする。死にたいと思っても自分の精神からは逃れることはできない。それもまた苦痛を大きくする。耐えよう。苦しみに耐えていこう。苦痛について考えていると苦痛は大きくなる。苦痛から逃れようとするとまた苦痛が大きくなる。苦痛には耐える意志を持たなくてはならない。こちらから迎え撃つくらいの気持ちでいかなければならない。そしたらいくらか苦痛も軽くなるんじゃないだろうか。それを期待して苦痛に耐えていこうと思う。

祖母の家へ

 梅雨が長く続くと思ったら、今度は晴れが続いている。野菜が育たなくて高騰しているらしい。明日の夕方には雨が降ると天気予報は言っている。そろそろ雨が降ってほしい。

 午前中遅くに、祖母の家にいった。祖母は朝食を作ってくれた。この頃はいつも朝食と昼食を兼ねていたので、久しぶりの朝食だった。ボリュームがあってかなりお腹がいっぱいになった。大根の料理が出て、わたしは作り方を聞いた。随分味が染みているから手が込んでいるような気がしていたのだが、作り方はごく単純だった。ただ材料を切って、粗塩と味の素をかけて混ぜ、ごまをかけるだけだった。それだけでここまで美味しくなるということに驚いた。祖母の料理は大抵そうだ。大変そうに思っても実は簡単に作られている。素直に感心した。祖父は医者に行って戻ってくるとわたしにコーヒーを豆から挽いて入れてくれた。少し苦かったが美味しかった。わたしは祖母や祖父と話をしながら新聞を読んでいた。話しながら読むのでなかなか理解できず、時間をかけてじっくり読んでいった。祖母は最近の自分の状況についてよく語った。わたしが自分のことをあまり話さないからそうなったのだろう。わたしは相槌を打ってそれを聞いていた。祖母は最近心掛けていることについてよく語った。その語りを聞いていると、祖母に色々な苦労があることが感じられた。わたしはその苦労の印象に共感しながら話を聞いた。対人恐怖が自分の奥底にあることを意識しているわたしとしては、かなりリラックスして人と時間を過ごせた。それでもやはり疲れはした。一人になりたいという想いはずっとあった。祖母は時間が経つと果物もむいてくれた。わたしは申し訳ない気持ちにもなりながらそれを食べた。こういう風な自動的で受動的な暮らしをするのは駄目であるような気がしたが、怠惰に流れた。

 昼過ぎに図書館へ行った。「大いなる遺産」をもう百ページ読んだ。よくわからないところは相変わらず大体の理解のまま読み進めていった。エステラの話が始まったあたりで百ページは終わった。エステラのところは面白くて集中できた。これからどうなっていくのだろうか。

 「失われた時を求めて」を手に取って冒頭を少し読んでみた。一文が長くて読むのに慣れが必要だと聞いていたが、少し読んだ分にはそれほど難しい文章だとは感じなかった。しかし書いてある内容はとっつきにくそうな気がした。これをいつか読むだろうかと考えたが、見当もつかなかった。

 家に帰ってネットサーフィンなどしていると、ベランダから向かいの家で飼っている猫が道路にまで出てきて寝転んでいるのが見えた。もとは野良猫だった猫だ。痩せた体をしていて少し痛々しい。わたしは家を出て、猫を撫でに行った。猫は人懐っこくて、向こうからもこっちへ歩いてきた。わたしが撫で始めると猫は道に転がった。わたしは背中や頭、お腹をしばらく撫でていた。撫でていると心が癒された。猫は可愛い生き物だ。猫はわたしが帰ろうとしてもずっと道に転がっていた。あまりに無防備に寝ているのでわたしは車に轢かれるのではないかと心配になった。そこで再度猫のもとへ戻って、猫を持ち上げて道路わきに戻そうとした。すると持ち上げようとした瞬間に猫は立ち上がって、今度はしっかりと座りなおした。あれなら大丈夫だろうとわたしは安心して、家へ帰った。自室へ戻りながら自分のように対人恐怖に陥っている人間には、猫などを飼うのは良いかもしれないと思った。自分の精神の不安定さで生き物を飼うのは不安だったが、いつか自分が安定感をもって生きられる日が来たら、飼ってみたいと思った。密かな目標になる気がした。

 それ以外の時間は、クラロワを少しやったり、アニメを見たりした。どれも暇な時間をただ埋めているだけで、全く集中できず、楽しくは無かったが、それでもいいのだと思った。 夜になってくると気分が苦しくなった。自分では自分の状況を崩すことができないという無力感と自己否定感で頭が埋め尽くされた。苦痛に耐える事が重要だと思ってそれに耐えていった。明日もその次の日も苦しみは続くのだと思うと、また苦しくなった。それでも耐えていった。耐えることに人生の意味があるのだと思った。

生の意味

 昨日から冷房を弱めにしているせいか、体調は元に戻ってきたようだ。

 図書館へ行って、「大いなる遺産」を百ページ読んだ。上巻が終わった。所々よくわからなかったが、あまり疑問を追いかけず、淡々と読んでいった。ピップがどうしてもジョーの存在を恥ずかしいと思ってしまうのが人間味があって印象に残った。もし自分だったら、良心の呵責のあまり欺瞞に陥りそうだと思った。ピップが自分の感情を正視し、肯定していく姿はたくましく思える。

 「失われた時を求めて」が図書館にあることに気づいていたが、それが文学の中でも最長と言われる本だということは今日初めて知った。アマゾンで検索したら全部で13巻あった。一日百ページずつ読んで、どのくらいかかるのだろう。2か月くらいだろうか。興味がわいてきたが、その興味は無謀であるとも感じた。しかしやはりいつか読んでみたいと思った。いつになるかは全く思いもよらない。

 暇な時間になると、思考がいつものように暗い方向へ落ちていった。今は、人生は別に無駄ではないと考えるのに少し慣れてきたのか、その手の虚無に陥りにくくはなった気がする。でもそう考える理由は特にないから、やはり考えないことは難しい。人生が無駄ではないと考える理由はどこにあるのかとうだうだ考えた。例えば、あるおじいさんが死んだとして、彼の人生が無駄だったと自分は考えるだろうか。わたしとしてはそうは考えない気がした。それは単純に同情からそう考えたくないだけにも思えたが、彼の人生が無駄ではなかったと思えるだけの理由が何か存在しているような気がした。その何かについて探るように考えていると、ふと浮かんでくることがあった。わたしは人間というのは誰でも苦悩と闘っていて、その生を全うするのはそれだけですごい事であると自分が考えていることに気づいた。わたしはそれ故に人の生が無駄であるとは思えないのではないかと思い至った。わたしはその考えについて考え、整理していった。すると自分にはどのようにして人生が無駄ではないと考えられるのかが見えてきた。人間には動物とは違って、根本的に苦痛が存在している。それは不条理というのかもしれない。宇宙の歴史からすると人類はほんの一瞬の存在かもしれないことや人類が消え失せても宇宙は続いていくかもしれないことだって、不条理といえるだろう。人間は不条理という試練を常に受けているのだ。だから人がその生を全うしたとき、そこには試練に抗って生きたという事実が残るのではないだろうか。肉体は消滅するが、その事実だけは永久に残るのではないか。だから誰かが死ぬと彼に何らかの誇りを感じるのではないか。それは無駄ではないのではないか。つまりわたしの場合、生の苦痛に耐えたことに意味があると思えるようだ。今までは人生は無駄ではないと理由なく言い聞かせるだけだったが、この考えが見えてくると強くそう思うことができた。暇の苦痛とか人間関係の苦痛とか自己否定が激しくなる苦痛に陥ったときにもこの考えでいると少しは耐えられた。自分は苦痛に耐えるということ自体が苦痛になりすぎていたかもしれない。とりあえずこの考えを大事にして生きていこうと思う。

不調の兆し

 体に不調の兆しを感じる。頭がボーっとするし、気分もよくない。もっとも気分が良くないのはいつものことだ。むしろそのせいで体調が崩れかけているのかもしれない。病は気からというわけだ。冷房の効いたところで過ごしているのも原因だという気がする。冷房の効いたところと暑いところを交互に移動するときの温度差にやられたという気もする。体調が少し崩れると気分も悪くなってくる。ますます体調が悪くなりそうだ。不安なので自室の冷房を弱めに設定した。

 「大いなる遺産」を百ページ読み進めた。読みたいという気持ちはなく、あるのは義務感ばかりだ。読むのが面倒くさかったが、読んだ。これを読むというのが、自分の決めた唯一のことなのだ。読まなければもはや自分には何もない。読んでいるとき、あと何ページ残っているかを何度も意識した。誰だか思い出せない人が出てきてもわざわざ調べようともせず、大体で読み進めた。それでも読んでいると面白いところがあった。ピップが遺産を受け取り、ロンドンへ出てきたところまで読んで、百ページは終わった。百ページが終わってみると気が楽になって、今度はもう少し読もうかという気になった。しかしそういう惰性は避けた方がいいと思った。決めたとおりに読んで、計画通りに読み終えるべきだ。そうしないと生活のメリハリがなくなる。

 道を歩いているときなどに、頭の中はいつもの思考に落ちていった。考えることは自己否定でいっぱいだった。何を考えても最後は自分にはできないという結論になった。全ての道が塞がっているような気がした。閉塞感がずっと続いた。働かなければという義務感はあるが、働けるという気はしなかった。その葛藤が頭の中でぐるぐる回った。自分は一生人生を苦痛としてしか捉えられないに違いないと思った。

 何もやりたいことがなくて見たいと思えるアニメを探した。「ようこそ実力至上主義の教室へ」の一話を見た。といってもアニメをじっと見るという時間が耐えられず、クラロワをやりながら見た。登場する学生たちがいい感じで、調子に乗ってるのが良かった。それと主人公が根暗なのが面白かった。この根暗主人公は自分の根暗をあまり気にしていないように思えた。根暗を個性としてしまっているようだ。それを見ていたら何だか気が軽くなった。根暗でもいいじゃないか、仕方ないじゃないかという自己肯定感がわいてきた。根暗を個性としていくというのが一つの道のように思えた。とはいえアニメの方はあまり見続ける気にならず、二話目は見ていない。面白いというのはきっと意志の力が関わっているのだ。だから意志の欠けた自分にはなかなか面白いというのは難しいのだ。

 とはいえやることはやっぱりなくて、「ブロスタ」というゲームを始めてみたり、「亡念のザムド」というアニメを観たりもした。ブロスタはクラロワつながりだが、やはり面白さが分かった。この感触だとしばらくはやり続けることになるだろう。亡念のザムドの方はあまり集中できなかった。面白い方だというのは分かった。でももしかしたら見続けるかもしれない。まだよくわからない。

自作詩「もう寝る」

本当は自由だと

歩いていて思う

本当は不自由だと

水を飲んで思う

 

下を向いて歩かない

人生だってあるし

外国人になってしまう

人生もある

 

自分の定めたルールで

自分を縛らなくてはならない

自由に定めたルールで

自分を縛らなくてはならない

 

トイレを我慢してまで

パソコンの画面を注視したり

時間ギリギリまで

ゲームをやってしまったり

 

それらを乗り越えていかなくてはならない

怠惰は罪だと言うではないか

 

わたしはもう寝る

そういうところから始めるのだ

原則探し

 昼過ぎに喫茶店に行った。道中、直射日光が強すぎて日傘を差した。日傘を差すのは老人であるという偏見があって今まで我慢していたが、遂に日傘をさした。よく考えたら、日傘を差すのは人生初めてだ。直射日光の下で日光に当たらないと、得した気分になるということがわかった。

 喫茶店で「大いなる遺産」を読み進めた。あまり集中できず、文章は読み進めていても、展開に気づけないことも多かった。登場人物の名前もピップとジョーくらいしか頭に入っていない。それ以外の登場人物は大体で理解して読み進めている。一日百ページ読むと決めた途端に読むことが面倒くさくなったが、読むことで義務を果たしたという満足感が得られるようになった。これでいいのだと思った。

 読書以外の時間はクラロワをやっていた。現在、ランク4500辺りをうろうろしている。無課金でやっているので将来のことを考えて、ノーマルカード中心でデッキを構成している。最近になって初めてクラロワの戦い方が分かるようになってきた。今まではこのカードで攻める、このカードで守るという方針がないままプレイしていた。攻守をイメージしてノーマルカードでデッキを構成するとコスト低めのデッキになった。高回転で回しながらジャブのようなダメージを入れていくデッキだ。方針が見えてくると負けた理由も見えてくるようになった。自分の攻撃のパターンだと相手のカードによっては通りにくいということなどに気づく。きっと普通はもっと早くにこのくらいのことには気づくのだろう。自分は今になってやっとわかってきた。スキルが上がったという気がする。しかし4500からはあまり動くことがない。自分のカードのレベルだとこのくらいが限界なのかもしれない。レベルを上がったらまた変化があると思うのだが、まだまだ時間がかかりそうだ。

 やることがなくなると苦痛だった。その度に人生は無駄ではないのだと自分に言い聞かせた。それは無条件に物事を明るく捉えようという言い聞かせだ。マラソンをしているときにも、人生が無駄ではないということに何かしら説得力のある根拠がないか考えていた。結局、見つからなかった。やはり人生が無駄ではないと意識的に考えるしか道はないようだ。こういうことを考えていると、この前読んだ「七つの習慣」という自己啓発本を思い出した。その本には、物や他人や自分を中心に生きるのではなく、自分が定めた原則に従って生きるべきだと書いていた。わたしはそれに説得力を感じ、感化され、何か原則を定めようとしたのだが、無理だった。自分の中にこうありたいという願望は見つけられなかった。でも今こういうことを考えていて、人生を無駄ではないと考えるということは自分の原則になるのではないかと思った。原則というのは自分の真の姿という訳ではなく、そう努めたいことであるから、やはりちょうどいい気がした。一つ原則が定まると、二つ目と三つめも浮かんだ。これは単純に本を読むこととマラソンをすることだ。「七つの習慣」を読んだ際には、原則について考えて中々思いつかなくて、これはかなり難しいことだと思っていたが、今になってみると、人間というのはそもそも気づかなくても何かの原則をもって生きているものかもしれない。知らないうちにこうありたいという生き方をしていて、それにより縛られて不自由を感じたりするのではないだろうか。原則を定めるというのは願望を見出すということだけではなく、今まで気づかずに存在していた原則を意識するということでもあるのではないだろうか。今回わたしが定めた原則も、本を読む、マラソンをするというのは今まで自分が守ってきたものだ。人生を意味のあるものだと考えるのは、新たな願望だ。意識していない原則を意識することで、快楽的な生き方から意志を重視する生き方に変われる気がする。原則を意識できればメリハリのある生活になるだろう。暇な時間は無為な時間ではなく、義務に対する休息の時間へ変わるだろう。今は暗中模索の状況なのでとりあえず、そういう方向で生活していこうと思う。

「大いなる遺産」を読み始めた

 暇な時間が苦しい。時間を無為に過ごしているという事実が苦しい。何かをしようと自分の中にやる気を探ってみるが、何も出てこない。何をしても無駄だという気がしてしまって、行動する気にならない。結局、時間を無為に過ごすか、時間を何かしらの行動で埋めるかのどっちかになる。どちらにしても苦痛だ。

 昨日考えたことをまた考えた。人生が無駄ではないと思うのなら、この無為に思える時間も無駄ではない。苦痛を感じるたびに、それを思い出して苦痛に逆らった。わたしはどうやら人生が無駄であるという考えに自然に傾斜していくようだ。だから苦痛になってしまうのだ。

 人生が無駄かどうかはたぶん選択の問題だ。どちらを選ぶことも間違いではない。はるか昔の無名の人間たちが生きたことを自分は無駄に思うかどうか考えた。考えると無駄であるような気がした。しかし彼らの人生が無駄だと考えるのであれば、偉大な業績を残した人間でさえ無駄であるということになると気づいた。さらには人類が今まで生きてきた事にも何にも意味がないということにもなると気づいた。

 やはり人生が無駄かどうかは選択の問題なのだろう。どちらか好きな方を選んでいいのだ。それならばわたしは無駄ではない方を選びたい。無駄ではないということが正しいと思えたらいいのだが、そこまでは思えない。無駄ではないと思うのは、無駄であると考えることが苦痛だからだ。わたし自身は無駄であるという考えに引っ張られている。だからまた無駄であるという考えに傾斜してしまうのだろう。わたしには苦痛になるたびに選択が必要のようだ。

 無為に時間を過ごすことが苦痛で本を読んできた。苦痛を埋めるためだから、一日に読む量もまちまちだった。でもこれからは読む量を決めて読もうと思った。計画的に行動することで無為であるという感覚は減るはずだ。とりあえず一日百ページと決めた。今日、ディケンズの「大いなる遺産」を読み始めた。このペースでいけば8日で読み終わるはずだ。図書館へ行ってこれから読む本も決めてみた。「八月の光」「怒りの葡萄」「百年の孤独」それぞれ8日くらいで読み終わるはずだ。

 一日百ページと決めてしまうと暇な時間は増えてしまった。暇な時間は苦痛だった。考えても意味のある行動が無く、無駄に散歩したり、書店で本を眺めたりして時間をつぶすしかなかった。無駄に散歩することが、自分にとってはまだ無駄ではない方なのだ。苦痛になるたびに人生は無駄ではないと思って、気持ちが苦しくならないように努めた。

 「大いなる遺産」はまだ百ページしか読んでいないが現時点でも面白い。主人公ピップの幼さがリアルだ。小さいころは恐怖が純粋だった。自分にもそんな恐怖があった。それが思い出された。出てくるキャラクターたちも面白い。一人一人がパワフルだ。ストーリーも面白くて引き込まれる。

 今までは日本の文学を読むことが多かったが、この頃はこうして海外の文学を読むことが増えた。どちらも読んでみた結果、今では海外の文学の方が面白いと感じるようになった。日本の文学は美しさがあったり、共感できたりという意味での面白いはあるのだが、エンターテイメントの要素はあまりないと思う。