宇宙のことが心配です

好きに色んなことを書きます。日記が中心です。本、映画、漫画、アニメなどで暇を潰す事が多いので、その手の感想も書くかもしれません。

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

 

  前にも見たことがあるのだが、その時は退屈になって視聴を中止した。

この度、アマゾンプライムでピックアップされているのを見かけ、再び興味が湧いた。

 

結果から言えば、そんなには面白くなかった。

途中で見るのを止めてしまいたい衝動に駆られた。

でも最後まで観た。

 

主人公は昔、バードマンという役で大ヒットを飛ばした俳優で、街を歩けばサインをねだられるような有名人。

しかし、現在は落ち目である。そして、演劇に挑戦している。

自分のすべてをかけて、その劇に挑むのだが、色々と上手くいかない。

果たして、もう一度、夢をつかむことはできるのか。

みたいな話。

 

何で面白くなかったか。

僕の理解が及ばないせいかもしれない。

詳しい解説を聞けば面白さがUPするのかもしれない。

しかし、ただ見ただけで湧いてくる感想をいえば、そこまで面白くない。

 

一つには、落ち目であるがゆえの悲しみとか辛さがあまり伝わってこなかったからというのがあると思う。

家族から愛想をつかされたり、葛藤したりするシーンは確かにあるのだが、不思議と心に刺さるものはない。

この映画はどうやらブラックコメディらしいのだが、そのコミカルさによって、苦しみがマイルドなものに見えるのかもしれない。

このコメディというのが、面白くなかったもう一つの理由なのだが、それについては後に書こう。

僕がこの映画を見て、その対比として思い浮かべたのが、ロッキーという映画だ。

ロッキーに感動があったのは、やっぱり落ち目であることの孤独や苦しみをリアルに描いてみせたからだと思う。

僕はバードマンと言うこの映画を見て、知らないうちに、ロッキーくらいの苦しみが描かれていると期待をしていたようだ。

しかし、この映画では勿論苦悩は描かれているものの、あまり伝わってこなかった。

何故だろうか。

印象的なセリフやシーンが無かったからかもしれない。

そうして、なまじロッキーという超名作映画を基準にしてしまったばかりに、この映画にはあっさり期待を躱されてしまったような味気ない気分になってしまった。

 

二つ目の理由。

この映画はブラックコメディらしいのだが、それがあまり分からなかったということ。

全体的に暗い感じが漂っているし、コメディの要素は、あまり分かりやすく外出していなかったように思う。

海外の文化からすると、読み取れる面白さがあるのかもしれない。

しかし、どうにも自分には難しかった。

勿論、これは狙ってるなと分かるシーンもあるのだが、それもそこまで面白いほどではない。

爆笑など勿論しないし、せいぜい何やってんだと突っ込みを入れるくらい。

笑いはしない。

 

笑えもしないし、かといって夢に向かって努力する男のドラマとしては本格度に欠ける。

うーん。

シニカルなコメディと人間ドラマが組み合わさって、独特な雰囲気が出ているのは感じる。

でも、それもそこまで刺激的ではない。

時々入る、映画ならではの現実離れした描写にもそこまで面白さが感じられなかった。同様に、最後のシーンもあまり好きになれなかった。

 

総括。

この映画は期待してたものと違った感があった。

評価の高い作品は、基本的に面白いと感じられるタイプなのだが、珍しく面白く思えなかった。 

最近読んだ本の感想

カフカ寓話集(カフカ

カフカ寓話集 (岩波文庫)

カフカ寓話集 (岩波文庫)

  • 作者:カフカ
  • 発売日: 1998/01/16
  • メディア: 文庫
 

 一ページしかないような作品もある。

断食芸人は一番わかりやすく面白かった。

ある学会報告と巣穴、掟の問題、歌姫ヨゼフィーネなどが印象的。考えてもわからないくらいに難解だが、何か現実の一部分を感じさせるような意味深い文章が並んでおり、どうしたって考えてしまう。そんな癖になる面白さがある。
ある学会報告で、人間になったサルが、「自由よりも出口の方を求めたい」と言っている。これの意味が分からす、どうも頭に引っかかった。ある日、ふと思いついた。サルは、所詮人間が言うところの自由というのは、動物園の柵内を歩き回れるという程度のものに過ぎないと言っているのではないだろうか。そして私は、そんな自由ではなく、柵からの出口を欲するということではないか。

カフカ短編集(カフカ

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ短篇集 (岩波文庫)

 

流刑地にてが印象に残った。すごい話を書くなと。
中年男ブルームフェルトも面白い。ボールが二つ追いかけてくるのは、何なのだろうか。色々考えられそうである。 

しかし、やはり難解。それでよくわからないので忘れてしまい、印象に残る話は少なかった。個人的には、寓話集の方が分かりやすいものが多かった。

第一次世界大戦 

第一次世界大戦

第一次世界大戦

 

 第一次世界大戦について、比較的短くまとめた本。解説によれば、これだけ短くまとめられるのは天才の所業とのこと。短いのだが、その分、一文が表す内容が濃くなっており、じっくり読んでいく必要はある。細かいことは記憶に残らなかったが、大まかな流れだけは分かったので、読んでよかったと思う。

 

図説第二次世界大戦

 第一次世界大戦を読んだので、こちらも読んだ。長編は時間的にも気力的にも厳しいので、図説でざっくり把握しようと考えた。今まであまり知らずに、ヒトラーという名前だけを知っていたが、この人がしでかしたことは衝撃的だった。ヒトラーを扱ったコメディ映画なんかもあり、何気なく見た記憶があるが、今はもう笑えない気がする。ギャグにできないほどのやばさを感じてしまった。戦争はよくないなんて思っていたが、今まではたいして知りもせずに盲目的にそう思っていた。もちろん殺しあうということを想像するだけで、そのひどさはたやすく理解できるのだが、この本を読んで、殺し合い以外にもさらに非人道的でひどいことが行われるというのが分かり、改めて戦争ってまじもんの地獄だと思った。今の時代も今なりの苦しさはあると思うが、この地獄に比べれば良いということだけは、間違いない。しばらく憂鬱になった、

カポーティ短編集(カポーティ

カポーティ短篇集 (ちくま文庫)

カポーティ短篇集 (ちくま文庫)

 

 ティファニーで朝食をは、読む気が途中でなくなり挫折したのだが、この短編集はよんでいけた。楽園への小道はユーモラスで面白かった。そのあとは、旅行記のようなものが何個か続いていたが、これも楽しめた。こちらは話が面白いというよりは、異国の情景描写やそこで生活するアメリカ人としての旅情が、心地よかった。無頭の鷹は異色に感じた。ティファニーで朝食をを読んだときは、あんまりという感想だったが、どうやらこちらに読む気力が足りなかっただけのようだ。今になって読んでみれば、普通に面白い。

ナインストーリーズサリンジャー

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

 フラニーとズーイは、宗教についての論争が続いて、よくわからないという印象が最後に残ったが、こちらの短編集は面白かった。村上春樹の本を読んだときに、やたらとユーモアにこだわっているのを感じ、その良さを感じてもいたのだが、この本を読んで、なるほど、村上春樹が何を目指しているのかが見えた気がした。ユーモアっていうのはこういうことなのかと一つ腑に落ちた。地の文一つ持ってきても、キャラクター同士の掛け合いを持ってきても、どれもがセンスあるユーモアに満ちている。これは憧れても仕方ないと思った。日本では成立しないようなノリなので、より憧れるのかもしれない。これが理解できたのと同時に、村上春樹の小説で、何が気に入らないのかも見えてきた。つまり、日本が舞台なのにノリだけはサリンジャーみたいだから、気持ちが悪いのだ。日本にはこういうジョークの文化はないのに、無理やり導入するから、どうにも奇妙な小説になってしまうのだ。これからは村上春樹は止めて、サリンジャーカポーティを読もうと思った。なまじ奇妙な小説を読んで、その違和感がストレスになるくらいなら、始めから海外の小説を読んだ方がましだ。それに、サリンジャーとかの方が面白さの点でも上を行っていると思うし。

最近見た映画の感想

春になり、気持ちのいい日が増えてきた。夕方、窓を開けて、風に当たっていると心地よく、ここがハワイであるような気がしてくる。そこから、さらにハワイであるとあえて思い込むことでいい気分にも浸れる。夏と冬は色々疲れることもあるが、春はやはり心が休まる。

さて、最近見た映画の感想を書こうと思う。何個か見ているのだが、もう一個一個感想をちゃんと書くのは面倒なので、まとめて書こうと思う。それに、そこまで深い感想がある訳でもないので。

最近は、日本の昔の映画に凝っている。アマゾンで無料で見れるものばかりを見ている。

麦秋小津安二郎

麦秋

麦秋

  • メディア: Prime Video
 

原節子笠智衆など同じ俳優が何度も出てくるのが、面白く思える。

慣習に従うのではなく、自分で考えて嫁ぎ先を選ぼうとするのが、現代っぽい気がした。今では親が相手を決めるなんてことは少ないだろうが、当時、自分なりの考え方で生きようとするのは、かなりロックな姿勢ではないだろうか。周囲に相談もせず、結婚相手を決めた娘に対して、母が「のんきな子」と呟くのが印象に残った。直接怒ったりするのではなく、裏で、心底嫌だという言うように、ぼそっと不満を表明するのがリアルだった。

晩春(小津安二郎

晩春

晩春

  • メディア: Prime Video
 

 父が心配で結婚できない娘なんているのかと半信半疑になるが、そのせいか、見ていると、結婚しない理由は本当に父が心配だからなのだろうかという疑いもわいてくる。何か奥底には複雑な思いもあるのだが、それが表現できないゆえに、ひどく単純でわかりやすいことを口にしているようにも見えるのだ。何か家族間でも言えない気持ちというのが裏にあるんではないかと感じさせるような単純には割り切れな深い雰囲気を持っていると思う。それと、やっぱり嫁ぐ場面はきれいだと思う。

お茶漬けの味(小津安二郎

お茶漬けの味

お茶漬けの味

  • メディア: Prime Video
 

 最後の場面、夫が帰ってくるのが、飛行機の欠航という偶然であるというのが、いいなと思った。仲直りがその偶然によってなされるということに、何か深さを感じる。あれだけ不満を抱えていた奥さんが一転して夫と仲良くなるというのは、普通に考えたら、変じゃないかと言われかねない気がする。しかしこの映画ではそれがあまり気にならない。奥さんの気変わりが違和感なく受け入れられるのだ。たぶん、そういう風に、思い詰めていたのに、いったい何に悩んでたんだろうっていうくらいに気が変わってしまうことってあるよなと思えてしまうからなのだろう。この辺りは、すごいうまいと思った。すごく自然だし、それでいて解決の喜びも感じられる。良い。

風の中の雌鶏(小津安二郎

風の中の牝鷄

風の中の牝鷄

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 調べたところ、あまり評価が高くない作品のようだ。それを知っていたからというわけではないのだが、あまり印象には残らなかった。なぜ印象が薄いのかは、よくわからない。深刻で暗いからという気もするが、しかし、実際そこまで暗くもない気がする。寧ろとことん暗ければ逆に印象的だったかもしれない。奥さんが売春という過ちを犯してしまうことから夫婦に苦悩が始まるという話なのだが、最終的に、もう耐えて、許すしかないとなるのも、まあそれしかないよねとこちらでも納得するのだが、それが想定内な感じがして、面白みがないかもしれない。面白さや結婚について考えさせるという点では、麦秋、晩春、お茶漬けの味の方が、よかった。

一人息子(小津安二郎

一人息子

一人息子

  • メディア: Prime Video
 

 父ありきは父と子の関係を描いていた。父ありきでは父はひたすら人格的で優しく、子は父を慕っていた。この映画は、母と子を描いている。しかし、父ありきと対照的というわけではなく、母は時に厳しい。母が、大人になって都会で働いている息子を訪ねるのは、東京物語を思わせる。母は、息子の出世にどうしても期待してしまうのだが、息子は都会で働くことの厳しい現実を説明する。しかし、母はそんな息子を、それでもやはりお前は頑張りが足りないと叱責する。個人的に、この辺りは息子の方に同情してしまった。母も貧乏な人生を送ってきたのだから、その辺りの現実の厳しさは分かりそうなものなのにと。しかしそれだけ母は息子の出世を期待してきたのだろう。息子は、奥さんにだけ「本当は母さんに出てきてもらいたくなかった」と本音をこぼす。そして、息子は最後には、もう一度頑張ってみようと思う。母は、故郷へ帰って「息子は立派で、私は幸せだよ」と同僚に話す。このあたりのドラマの良さは流石といったところで、見終わってからは、良い映画を見たという充実感があった。

幕末太陽伝(川島雄三

幕末太陽傳 デジタル修復版

幕末太陽傳 デジタル修復版

  • メディア: Prime Video
 

 アマゾンプライムでやたらお勧めされてたので、予告を何気なく見たら、何やら名作らしいと知り、それからしばらく見たいという気持ちを温めていた。

コメディ映画である。落語を参考にもしているらしい。そういわれれば、そうかもと思う。たまに落語っぽいおバカな展開がある。

映画は主人公以外の話もあって、同時に進行していく。始めの方は主人公がたまに映る程度で、登場人物がわっと大勢出てくるので、何が中心になっているのか、よく分からなくなった。しかし、それでも感覚でなんとなく分かるので、問題はないが。

小さな話がいくつもテンポよく展開していくのだが、この一つ一つが観客の予想を裏切ったり、驚かせたりで、楽しませるようによく練られている。ちょうどお笑いのコントのようだ。始めは情報が多く、何だかわからないことも多いが、黙ってみていると、気づけばこのテンポとノリの虜になっている。主人公のお調子者っぷりや天才っぷりが見ていて、気持ちいい。

ラストシーンで、今までのうるさいくらいの騒々しさとみんな寝ている静けさの対照は、すごくよかった。最後に主人公が走っていくのは、なんだか面白くないこと、色々の制約やらなんやら、もっと言えば生きることの苦悩すらから、逃げ切ってみせると言っているようで、いかにもコメディという清々しさがあった。川島雄三は、主人公が映画のセットを飛び出し、現代の東京へ入り込んでしまうというラストを想定していたようなのだが、個人的にはそっちの方が面白いかもと思ってしまった。その方が、冒頭の現代の品川の部分も活きてくるし。とにかく、名作である理由は理解できた。面白かった。

レミオロメンの歌詞

レミオロメンの歌詞で好きなフレーズを10個ピックアップして、並べてみようという企画を思いつき、誰に望まれるわけでもなく、勝手にやろうと考えた。

  1. 「希望の色は空色 見上げるけど飛べないまま 僕は僕だよと呟けば ありのままでいることは これほど難しい(たやすい)」(永遠と一瞬より)
    確かに、ありのままでいるのは難しい。そして、たやすいのも事実。これはもうそうとしかいいようのないことを言っている。
  2. 「瞳とは未来そのものだから 輝かせて」(茜空より)
    茜空は透明感があって良い。未来への不安やら希望やらを美しいイメージで想像させる。マジの名曲だと思う。
  3. 「名前もない踏切 電車の風 疲れた顔は誰かに似ているよ ヘッドライトと連結の影遊び 窓に下がる腕に秋が張り付いた」タクシードライバーより)
    一時期、岡本まさみ作詞吉田拓郎作曲の曲にはまっていた頃がある。この曲を聴くと、その岡本まさみを思いだす。歌詞が情景描写になっているのだ。普通の曲というのは大抵が観念的な歌詞で構成されている。レミオロメンもそうだ。しかし、この曲は珍しく、情景がイメージしやすい。都会に疲れた運転手の映像が浮かんでくる。この都会と田舎の対比の感じとかはストーリーも感じさせる。実際、レミオロメンの曲の中で一番好きだと思う。
  4. 「何度だってやり直せる だけど今は二度とこない」(もっと遠くへより)
    もっと遠くへの歌詞はすごい。ただ、夢に向かっていけと応援しているわけはなく、人間の弱い部分もちゃんとカバーしている。RUNでもそうだが、暗い部分を無視しない辺りはやっぱりすごい。
  5. 「遠い記憶の太陽が 僕の心に入り込むことはなくて 瞳を閉じて 時は止まらず 人は変われない」 (アイランドより)
    レミオロメンの曲に段々と抵抗を感じるようになってからも、アイランドはかなり好きだった。この歌はまさに、レミオロメンが変わってしまったことに対する気持ちについて歌っているように感じる。絶望を感じさせるけど、名曲だと思う。歌詞にススキが出てくる辺りがまた良いなと思う。
  6. 「勝つか負けるかはわからない 僕らはやれるかな」(追いかけっこより)
    弱気ながらも戦う感じがいい。この曲は、儚い感じがする。エーテルは透明感がある。
  7. 「僕らはらしさを探している?思い出してる?どちらも同じさ」(紙ふぶきより)
    個人的に、なんかいいなと思った歌詞。らしさを探しているというのは、らしさを思い出しているのと同じ。確かに、そうかもしれない。さりげなく深い。
  8. 「うまくやるだけが全てじゃない 心を失ってしまったら 宇宙に意味がないんだ」(モラトリアムより)
    この曲にモラトリアムという名前が付くのが心地いい。歌詞的に、確かにモラトリアムという感じがする。色々うまくいかない感じあり、悩んでる感じあり、青い感じありで。いい曲過ぎて、歌詞全部を書いてしまいたくなる。心がすべての入り口という歌詞は、他の曲でも登場する。
  9. 「きっと何事も上手くいくかいかないか 分かっているけど したいことだけわからない」(深呼吸より)
    深呼吸は良い。それしかいえない。
  10. 「秋の重心 日々の円周 コンパスの針で切り取った 世界に色づく 落ち葉の夢」(蒼の世界より)
    このままどこか知らない世界を見つけてみないかいと言いながら、落葉樹とか独特な単語が並ぶ何だか渋い曲。それが個性的で良い雰囲気を醸している。秋の重心とか日々の円周とか落ち葉の夢とか、言葉のセンスがかっこいい。

感想的なもの

歌詞として好きなものはたくさんあるのだが、10個選ぶとなると、難しかった。本当に好きなものにすると10個を切るし、かといってハードルを下げると10個を優に超えてしまうのだ。別に10個にこだわることもないと思いつつ、こういう場合は、やっぱり10かなとも思い、困ってしまった。

あと、ほとんどエーテルの曲が並んでしまった。なかなかどうして、やっぱり一番好きなのはエーテルかな。

黒澤明の乱を見た。

昔も見ようとしたのだが

実は昔も見ようとした。けど、その時は開始30分くらいで、見る気が無くなり、止めた。黒澤明の映画って、悪く言えば堅苦しくもあるから、そういうものを見てやろうという気概がないと、実は結構眠くなったりする。生きるとか赤ひげとか特にそう。長いし。だから、個人的には黒澤明の映画はエンターテイメント系がバランスがちょうど良くて、好きなのだ。昔見た時は、どうも見るスタンスが取れてなかったようだ。今、見ると結構入ってゆけた。

ちょっと抵抗がある点

昔、見た時に抵抗を感じたことがある。それは、衣装が明るいことだ。戦国時代?ってこんなきらびやかな衣装を着てるの?そういう疑問がわき、リアリティが無いように感じた。今回改めて、乱を見ても、同じように感じた。

全体的に違和感がある

気になるのは衣装だけではない。というか、衣装は、違和感の一部に過ぎない。どうもこの映画にはリアリティの面からすると変に感じる部分がある。それは細部の問題ではない。合戦の迫力とかは、本当にリアリティがある。城が燃えるところとか、俳優の演技も相当すごい。そうではなくて、根本的なことなのだ。それは、おそらくこの映画がリア王などの原作を下敷きにして作られているということに起因していると思う。それらの原作を日本に置き換えている分だけ、どうしても違和感があるのだ。そこにやはり無理があるんじゃないだろうか。だから、結局、どんなに細部がリアルでも、戦国時代ってこんなんじゃないだろうっていう違和感はずっとある。

もう一つのどうでもいい思い込み

あともう一つ、昔この映画を見て、つまらないと思った理由がある。これは、もはや、今思えばどうでもいい思い込みなのだが、それは、なんか白黒映画の方がよくねえ?というもの。どうも僕には白黒映画には何か不思議な力があるような気がする。僕には、黒澤明しかり小津安二郎しかり、色が付いてしまうと何か物足りない感じがするのだ。何故かは分からない。普通に考えれば、色がついた方がいいような気がするのだが。

しかし、まあ、そんなわけで、僕には色が付くとあんまり良くないという固定観念があって、それで、この映画をはなからはねつけていたのだ。なので、今回この映画を見て、反省した。あんまりそこにこだわるのも変な話だと。

半分、演劇みたいなもん

七人の侍なんかは、とことんリアリティがある。勿論、創作だけど、それを感じさせることはない。だけど、この映画は前述のような違和感は少しある。それで、途中で気付いたのは、この映画半分演劇みたいなもんだなということ。いわゆるミュージカルとかそんな類いの要素を持っているということ。この映画がそういう系統にあるのだと思ったら、違和感はどうでもよくなった。リアリティは勿論追求しているけど、リアリズム映画とは少し違うのだ。

始まり方かっこよすぎ

映画は、なんか知らんが、狩りの場面から始まる。馬に乗った武士みたいのが、ひたすら、草原の中でじっと佇んで、周囲に目を凝らしている。この始まり方がかっこよすぎた。何かが始まる前触れの静けさとでもいうのだろうか。しかし、あんな草原、日本のどこにあるんだろうか。

やたら空を映すが、それが良い

この映画では、やたら空が映る。といっても、最初の狩りの場面で多いというだけだが。でも、この空の映像はかなり良かった。多分、生の色ではなく、何か映像に加工がされていると思うのだが、その色合いがまたなんとも言えない色合いで、何かこの物語に寄り添いつつ、意味ありげな雰囲気を醸している。人によって色々な解釈がてきそうな感じ。僕は夏の入道雲の感じはとても好きなので、狩りのシーンでは映像に見入ってしまった。

道化

この映画には、道化が出てくる。見ている時は、この役が何なのかすら分からなかった。後から調べて、分かった次第。大殿様を時に咎める役どころらしい。道化に関しても、前述のリアリティについての違和感の話が持ち上がってくるのだが、まあもうそれは良しとする。

道化の存在が重要なのは何となく分かるのだが、終始変な感じがした。ピーターさんのあの感じはなんだろうか。映画に合ってるのだろうか。よく分からない。なんとも言えない。道化が芸らしきものをしているシーンもあるのだが、これはもう全く笑いどころが分からなかったし。また、大殿様との掛け合いで少しコメディらしい要素を感じもしたのだが、話はあまりに真面目な雰囲気なので、それも笑いどころなのか何なのか良く分からなかった。

やっぱりすごい

まあ、色々気になるところはあったのだが、やっぱりすごいというのが最終的な感想。前述の気になるところより、すごいところの方がはるかに多かった。それらはもう書くとキリが無いので、書く気にならない。それに、すごいところはすごいとしか書けなくて、小学生みたいな感じになるので。こんな本格的な映画を日本で撮っていたというのは、ほんとにすごいことだなあと改めて思った次第。

レミオロメンがやっぱり良い

この頃、また

昔、レミオロメンをよく聴いていた。結構好きだったのだが、風のクロマあたりからあまり好きだと感じられる曲が無くなりはじめ、花鳥風月でさらにその傾向が強くなった。それで一時期、あんまり聞いていなかった。藤巻良太としてソロ活動をしているときに、オオカミ青年とかちょっと聞いたりもしていたが、それも何か歯に食い物が挟まっているかのように納得できないものが少しだけあって、そのせいで何度も聞くことにはならなかった。でも、最近またレミオロメンを聴いている。といっても、花鳥風月以前のものが中心なのだが。ただ花鳥風月もこの頃は、いいような気がしている。starting overとか立つんだジョーとかも初めは抵抗があったが、よくよく聞いてみるといいじゃないかと思う。

心境の変化

許せるようになったというと何様なんだということになるが、でも実際そういう感じ。昔はレミオロメンが段々と変わっていっているという印象を抱いていた。実際、それは確かだと思う。レミオに抵抗を感じるようになってから、バンドが変わっていくのか自分の感性が変わっていくのかとよく考えもした。それでいつも、共に変わっている、が答えだろうと結論を出した。全てが変わっていくのだ。それが真実である。なので、こればかりはもう仕方ない。僕の友人にもレミオ好きがいるのだが、友人は一貫して昔も今のレミオも好きだと言っていた。しかし僕はどうにも変化が嫌で、今のレミオを手放しで良いと言うとウソになってしまう自分を感じていた。だから、どうにも本当のことが口にしずらかったものだ。

しかし、今では、時が経過して僕の方の受け取り方も変わってきた。それで今改めて、レミオの曲を聴いてみると、やっぱりいいじゃないかと。花鳥風月は相も変わらず納得できないところもあり、たぶんこれは消えないのだが、風のクロマには昔気づけなかった良い曲があると、気づくことができた。例えば、もっと遠くへ。これは多分、レミオが好きな人なら、名曲であることは当たり前かもしれない。でも恥ずかしながら、僕はこの曲も昔は初めからあまりちゃんと聞いていなかった。今になって、名曲だと気づいた次第である。どんな自己啓発本よりも良いと思うくらい歌詞がいい。それ以外にも、リズム。これもいい。歌詞がいい。あとRUN。これは昔はあんまりだったが、今ちゃんと聞けば良い。あと、茜空。しかしこれは昔も好きだった。昔から好きな曲もある。茜空とアイランドは昔から好き。しかし、今聞いてみると、花鳥風月さえレミオらしさがないかといえばそんなこともない。やっぱり花鳥風月に見られる歌詞の感じは昔あった要素の延長のように思われる。花鳥風月の中で一番良いのは東京かな。Cメロはどれもやっぱり良い。いや、メロディーはどれもかなりいいのだ。問題は歌詞なのだ。そればかりがやっぱり引っかかるのだ。

個性が爆発してるので初めはとっつきにくい

レミオロメンの曲は大抵がスルメ曲で、初めて聞くときは、良いと感じるよりかは戸惑ってしまうことが多い。これ、どうなんだろう?また、すごい曲作るなあ。という感じ。メロディーも歌詞も結構癖が強い。しかし、何回か聞いているうちに慣れてくるといい曲だと感じられるようになる。そういうパターンである。

花鳥風月の何が嫌か

花鳥風月の何に抵抗を感じたかと説明するのは難しい。ただ、歌詞であることには間違いがない。音楽的な要素に関しては流石にレベルが高いと感じるし、良いと感じる。だからこそ、抵抗もありながらもたまに聴いているくらいだ。それじゃあ、歌詞のどんなところに抵抗があるか?

レミオの好きなところ

僕の感覚では、レミオロメンの良さの一つというのは、あまり格好つけていないところにあると感じている。ビジュアルというよりは、歌詞的な意味で。歌詞のすごさでいえば、例えばミスチルとかバンプオブチキンはレベルが高い。彼らの曲もたまに聴くし、好きである。何より歌詞のすごさに感嘆する。メロディーに乗っかるように歌詞を、それもただの歌詞ではなく、的確で良い歌詞を考えるその器用さ、技術は確かに芸というべきもので、こんなことは誰にもできないと思わせる。レミオロメンの歌詞もすごいのだが、ミスチルバンプには敵わないかなと思う。

でも、僕は不思議とレミオロメンが好きだ。あんまり聞かない時期もあるが、また戻ってきて、リピートしてしまう。なんでだろうとたまに考えるのだが、その結論として出てきたのが、レミオロメンはあまり格好つけてない感じがするという話なのだ。うまく言えないが、繕って上手く魅せるというよりかは、繕うことには頼らず内面を磨くことによって魅せようと心掛けているような純粋さ、真面目さ、不器用さが感じられるような気がするのだ。それは自然にインディーズ感があるということにつながるかもしれない。

改めて、花鳥風月の何が嫌か

花鳥風月では、ちょっと格好つけているような気がする。そこに無理があって変な感じを醸しているような気がする。ただ、それでもレミオらしくないということはない。やっぱり藤巻さんが考える歌詞だという感じはする。だから、変化したのは明らかだが、変化していないものもあって、それ故に何がどう変化したかと的確に説明するのは難しい。なので、この辺でやめておく。とにかくレミオがなんだかんだ好きだということが分かったという話。

 

不愉快な出来事

先日、非常に不愉快な出来事があり、本当はそんなことを書きたくなかったのだが、書かざるを得ないくらい嫌な気持ちが溜まったので、書くことにする。

雨の日。とある喫茶店。店内は混んでいて、席は一つか二つしか空いていない。窓際の1人用の席に座った。隣には人がいて、精神的に窮屈な感じ。

テーブルとテーブルの間に、意味深な台があった。その台はテーブルと繋がっている。私はその台をおそらくテーブルに付いた荷物置き場だろうと考えた。それで、その台に置き傘を置いた。

すると、右隣のおじさんが私の方を意味ありげに見ている。私は瞬時に察知した。これは、何か反感を買ってるなと。おそらく、おじさんはこの台を荷物置き場だと思っていず、テーブルとテーブルの間にある何か意味深なデザインフルなものだと思っていて、そのために、私が傘を置いたのを自分の領域が侵されたように思い、不快感を感じているのだと。

私は恐る恐るという気分になったが、それでも、傘を置いたままにして、本を読み始めた。私の中で、これは荷物置き場だという認識は揺らがず、なので自分は正しいと思った。

本を読見始めてすぐ、おじさんは椅子の背に掛けていた自分のレインコートをわざわざ僕の傘の上に置いてきた。完全に当てつけである。私は激しく憤りを感じた。私の言い分は、お前の荷物置き場も右側に付いているだろうが!というもの。

私は憤りを感じていたものの、同時にそれと同じだけの人見知り的な恐怖あるいはこのおじさんに何か言って反対にキレられたらかなりしんどいことになるという思いにも駆られていた。私は激しい感情のままにレインコートの下から傘を引ったくるように取り出して、どこにも置き場がないので、仕方なく椅子の下の地面に置いた。そうして、また本を読み始めた。おじさんには動きはなかった。

私は本を読み始めたものの、怒りで全く集中できなかった。やるせなくなり、もう店を出ようと衝動的に思いたち、アイスミルクティーをとんでもない勢いで吸い始めた。しかし、その途中で、考え直し、冷静になろうと思った。私は感情をコントロールしようと努めた。呼吸を整え、感情が高まらないよう注意した。本の一文字一文字を頭に入れようとした。そうして、私は怒りのぶり返しに集中を乱されながらも、そいつと戦った。

おじさんは先に出ていった。私はほっとしたが、怒りは継続していた。それでも本を読んだ。

私はこのあまりに不愉快な出来事について何も考えないことができなかった。このゲロ人間の台を荷物置き場と認識できない無知っぷり!無知ゆえのあまりに見当違いな怒り!そして、わざわざ当てつけてくるそのどうやっても肯定できないような、ゴミのような大衆的な卑しさ下品さ!どれもが吐き気がするほど、たまらなく嫌だった。なぜ自分がこんなくそみたいな出来事に巻き込まれなきゃいけないのかと思った。

私は激しい鬱憤の中で、あのゲロ人間がなるべく不幸な目に遭いますようにと懇願した。そして、事故にでもあって、異常に苦しむ形で死んでくれますように!

そう、事故!事故だ!こういうゲロみたいな人間に遭遇することというのは、もう事故だ。もう仕方ないことなのだ。なぜかは分からないがこの不愉快なイベントに私が選ばれたのだ。こういうことはもう諦めるしかないのだ!私はそう思って、怒りを何とか平坦にしようとした。また、この台がはっきりとは荷物置き場と確定できないという事もあり、あるいは自分の認識が間違っていたかもしれないという可能性についても考えた。そうして、怒りを手懐けようとした。また、思えば、傘をおられるなどのような実害を被ったわけでもないのだ。こんなことで、怒っていたら、キリがない。そう、事故だ。事故なのだ。仕方ない。もう笑ってしまおう。

しかし、抵抗は虚しかった。それだけ、怒りは激しかった。無限に湧いてくるように思えた。何より嫌だったのは、私がゲロ人間に対し、何も言えなかったことだった。これは荷物置き場ではないでしょうか?その指摘ができなかったこと。もしできていれば、事件は収まっていたかもしれないのだ。ゲロ人間がかえってキレてくるようなら、それにも刃向って、もし殴り合いに発展するようならそれも辞さないくらいの根性を持つべきだった。自分は初めから、恐怖に支配されて、負けるが勝ちだというように、屈服して場を収めることしか出来なかった。その結果がこの怒りである。理性的であろうとする側が折れて、場を収めなくてはいけないとは。そんなことをしても、なんの報酬もないというのに。

私は実際、怒りの頂点にいる時、いっそテーブルを蹴り上げたかったのだ。何百回も。怒りが収まるまで。まるで、お子様だ。思えば私は小さい頃からそうだった。怒りで泣き出すような激しい感情を持っていた。私は何も変わっていず、いまだに言葉で解決するという大人な対応ができないのだ。私は怒りの中で反省もした。怒りに憂鬱が加わった。ああ、こんな感情の激しいのはもうゴリゴリだと思った。なるべく平静に生きたいと思った。

思えば、この出来事はなんて小さく下らないのだろう。荷物置き場に物置かれた?自分の領域に置き傘を置かれた?こんな平和の象徴みたいな何の害もないかわいい小さな傘を?たったそれだけのこと?何でそんなことでこんなイライラしなくちゃいけないの?人は喧嘩をするとき、片方が片方のレベルにまで落ちなくちゃいけない。傘を置かれただけで自分の領域を侵されたというようなゴミみたいに矮小な怒りに当てつけをくらったら、その瞬間、自分もその怒りに対応して、同じように怒りを感じなくてはいけないのだ。なんてくだらない事なのだろう。そんな事を議題に挙げてくるなよ。ふざけんなよ。こんなどうでも良い事で、イライラしたくねえんだよ。

この出来事について、カウンセラーに話をしたら、ストレス解消法を模索してはどうかと提案された。なるほど。納得した。しかし、問題なのは、自分が人と関わると余計ストレスだという事だ。なので、一人で完結するようなストレス解消でなくてはいけない。とりあえず思いつくのは、パンチすること。あるいは、全力疾走。もう疲れ果てるしかないのではないか?こんな馬鹿げたゴミみたいな人間にも屈服し、負けるが勝ちなどといって自慰しているようではもうどこにも希望がない。

父ありき

金欠なので、DVDをレンタルするお金までもけちり、アマゾンプライムで映画を見ている。この前、東京物語を見てから、また昔の日本映画ブームがやってきた。

父ありきは小津安二郎の映画である。父子家庭における父と子の関係が描かれている。この映画は、子供が中学生になる前あたりの話から始まり、途中から突然、子供が成長する話に変わる。まるでドラゴンボールの悟空みたいに突然大人になっているので、最初は話についていけなくなるくらいだった。小津安二郎らしい哀愁はこの映画でも健在で、印象に残る良い場面がいくつかあった。父子が二人で話をする場面はどれもよかった。釣りをしながら話したり、公園?のような見晴らしのいいところで話したり。それだけでいいものがあった。

この映画で少し気になったのは、子供が父をやけに慕っているというところだった。母のいない家庭だからなのかと想像するが、個人的には父親をここまで慕うというのは、感覚的に理解できなかった。よく心理学などで父親は子供にとって超えるべき壁であるとかなんとか、そんなような理論があり、それらの理論を大して信じているわけでもないのだが、そんな風に考える気持ちは理解できる。父親というのはやさしいだけでなく、例えば小説などでは、時に理不尽だったり暴力的だったりする。自分の現実を振り返ってみても、そんなところはあるような気がする。しかし、この映画ではそうゆうことがまるでなく、父はひたすら優しく人格的で、子供はひたすら父を慕う。大人になってからも父と一緒に暮らしたいからといって、仕事を変えようとするくらいだ。この映画はそういう意味で少し道徳的に過ぎるような気もする。美しい部分ばかり、やさしい世界ばかりを描いている気がする。でも子供が父を慕うという気持ちは確かにないわけじゃない。寧ろこの映画を見て、父と子の関係というのは本当はこうなのかもしれないと改めて思わされた。なので、別に道徳的すぎると言って、この映画を断罪する気は毛頭ない。実際、こういう父と子のドラマをみていると清々しい気持ちになれる。ただ良いなと感じられるだけでも、映画として十分ではないだろうか。

この映画では父子の関係が描かれるといったが、実際は、父に焦点が当たっていて、父単独の話が結構出てくる。元教師である父が生徒たちに同窓会を開いてもらう場面があったり。こういった場面もすごくリアルでいい。結局、そういう人生のイベントって感慨深いものだから、こうしてリアルに描かれるといいと思わざるを得ない。会話も何げなくてリアルだ。小津安二郎の映画をいくつか見ていて気付いたのは、基本的に悪い人は出てこないということ。登場人物はみんなちゃんとした人ばかりなので安心してみていられる。

西鶴一代女

最近、東京物語の予告編をYOUTUBEで視聴するのが、自分の中で流行っている。本作の音楽が小津安二郎作品の中でも一番好きなのだが、それが流れる中、俳優たちの予告編用にピックアップされた印象的なセリフが流れていくのを見ていると、それだけで東京物語の雰囲気が味わえて、ほのぼのといい気分になる。たった2分くらいでこんな気分が味わえるのは贅沢なことだと思う。

さて、本題は小津安二郎ではなく、溝口健二である。西鶴一代女を見た。

話は、何歳か分からないが若くはない女が、仏像が並んでいるのを見ているところから始まる。そして、物語は過去へと飛ぶ。そこから女の人生は描かれていく。

女はひたすら世の中に理不尽に扱われ、どんどんと落ちぶれていく。ここまで不幸な人生があるだろうかと疑ってしまうくらいに執拗に彼女は現実に打たれていく。見ていて、ちょっとやりすぎではないかと思った。ある場所に落ち着いて平穏な日々を過ごす場面もあるが、それすら悲惨な場面へのあからさまなフラグでしかない。

彼女はただただ不幸に見舞われる。それらの不幸は不運としか言いようのないこともあるし、世の中というものに翻弄された結果でもある。この映画にはあまりに不幸な場面ばかりが流れ、彼女がそこからどのようにして立ち直ったかや、そこに希望があるとかないとか、そんな類のものは描かれていない。僕は、時間が解決したんだろうと脳内で補完した。それ以外には何も考えられなかった。彼女には友人にようなものもいないように見えたし、そういった暖かい関係もほとんど描かれていないからだ。また、彼女は人生に絶望し、おそらく死にたいのだろうと想像した。彼女がそれでも生きているのは死ねないからという理由に過ぎないと。そうして映画を見ていると、彼女の人生はあまりに哀れに思え、現実はあまりに残酷に思えた。しかし、結局、この映画がやっぱりすごいと思った理由は、その哀れさが人間そのものを描いているように感じられたからだ。いくら理想を描いても世の中には勝てないし、お金は手放せない。どんなに嫌でも生きることはやめられない。そんな人間のやりきれなさが感じられ、それは確かに自分の中にもあるのだ。たぶん、純情な経験を持つ者は、強く共感できるはずだ。

個人的に好きな場面はいくつかあった。一つは、仏像を見て、昔の男たちを思い出すというところ。なんとも芸術的で、かっこいい思い出し方だ。これだけ壮絶な人生を生きてきた彼女なわけだから、昔を思い出すというだけで、これはどうしたって良い場面になる。この類の良さは、もはや映画的に王道といっていいだろう。二つ目は、彼女が、引き離されてしまった自分の子供を追いかけるところ。彼女にとって、子供と引き離されているということがどれだけの悲しみであるか、またやっぱり子供に会いたいというのが親の真実の気持ちであるということが改めて痛切に感じられた。第三に終わりの場面である。この映画は、結構シンプルに終わるが、やっぱり余韻がある感じで終わるのがよかった。

調書

ルクレジオの処女作、調書を読んだ。

作者の作品について調べたところ、初期のものから段々テーマが変わってゆき、後期ではだいぶ違うものになっているようだ。今回読んだ調書という作品は、難解で理解があまりできなかったので、今度は後期の作品に手を出そうかと思う。文章も読みやすくなっているらしいので。

よくわからなかったとはいえ、不思議と読むことができた。というのも、途中何度か意味がわからなくなり挫折しかけたのだが、そこは精読することで、半信半疑のような状態ながらも、何とか乗り越えられた。分からない中にで、たまに、理解できそうな一説に出会うと、それを起点としてまた読もうという気になる。そんな風にして、読み進めることができた。また、この作者は一体何が言いたいんだろうかという疑問も手伝って、読んでいけた。それに、文章が、当たり前だが、上手いので、読んで行けるというのもある。

結局、本当にまるで意味が分からないのは最後の方だけだった。最後が意味わからないので、煮え切らない嫌な気分で読み終えた。この小説はタイトルに調書とあるように、アダムという特異な男の生態を淡々と述べてゆくという形で進行する。

この男のおかしな行動はほとんどユーモラスで、こんな人間が存在するとは思えないほどである。でも、彼が何か強い目的を持って、行動していることは、読んでいるうちにわかる。この辺りあまり理解できてるとはいえないが、彼の行動理由は全く理解できないわけでもない。生きてることのどうしようもない苦しみから逃れたいというのは理解できる。そこから、積極的に何か陶酔を得るために行動しようとするのは、彼の個性だと思うが。

彼は最後に取り調べを受ける。精神病ではないかと診断にかけられる。研修生たちの練習相手に選ばれるというのは、なんとも悲しい。結局、彼は精神病だったのかどうか、それはよく分からない。小説でもそれは謎のままになっている。頭のいい唯の狂人か、それとも本当に天才で、救世主的な存在かもしれない。そう思わせてくれるところが、この小説で1番、面白かったところ。このアダムという人間が死んでしまったら、何か酷く貴重な個性を無くしたかのように思えてしまうかもしれない。もちろん、こんな人間、いるとは思えないのだが。

あったかい

最近、コロナの影響で、窓を開けてることが多い。大抵、暖房が入ってるけど、窓のそばで座ってると、風が入ってきて、けっこう寒い。あったかいと寒いが同時に味わえて、気持ち悪い。

この前、とある休み時間にそうやって、やることもないままぼーっと座ってたら、やっぱり少し寒くて、気づくと自分の体を触ってた。自分の体の暖かさに触れて、手を温めようという、自己完結した行為である。

それで、色々触って気がついた。ベルトのバックルが一番温いということに。お腹の温もりが金属に伝わっているようだ。

それからというもの、たまにバックルを触って温もりを確認している。

映画「愛を読む人」

リトルダンサー」を見て、すごい良かったので、同監督の「愛を読む人」を見た。

後から知ったが、朗読者というタイトルの原作があるらしい。そう言われてみると、確かにと納得した。話が良くできている。

唯、その話がよくできている点に、逆にご都合主義を感じてしまった。そのせいで、物語を現実として捉えられなくなってしまった。

結果、ちょっと物足りない気がした。まあ、こんな感じの映画かっていう感想でした。

困りごと

自己顕示欲というのは、僕のように社交を恐れがちな人間にとっては、困りものだとたまに悩む。

三大欲求と言われる食欲と睡眠欲と性欲は、自己完結していても、まだ何とかなる。食事と睡眠は当然一人でこなせる。性欲は当然とは言わないが、それでも何とかなる。しかし、自己顕示欲はどう考えても、他人が存在しないと成立しない。

この欲求のために、最近は誰もが情報を発信することになるのだと思う。本屋に行って、色んなタイトルが並んでいるのを見ると、みんなこの欲求に突き動かされているのだなあと思う。

僕としても当然、この欲求を満たしたいところなのだが、他人から色々言われることを想うと嫌になり、結局我慢する方がいいという結論になる。そんな風にして、ずっと物足りない気分を味わっていると、この欲求をどうにかしたくなる。しかし、どうにもならないから、困ってしまう。

そもそも自己顕示欲は何なのだろう。食欲とか睡眠は生命活動のためだし、性欲は種の保存のためだろうから納得できるのだが、自己顕示欲はよく分からない。他者と関わるようにするためだろうか。他人より優位に立ちたいという競争心からだろうか。いずれにせよ生命維持には関わらないから、どうにかなるのだろうが、あんまり欲が湧いてくるときにはどうしたらいいものか。

まあ、考えても、よく分からない。とにかく困っているという話。結構、切実に。

「君に読む物語」を見た

なんか、特に見る気もないのに、惰性で見てしまった。

というのも、僕は「リトルダンサー」に感銘を受けて、同監督の「愛を読む人」を見たかったらしいのだ。タイトルが似ていたので、勘違いをしてしまった。でも、まあ、せっかく途中まで見たので、全部見た。

途中でオチがわかってしまったというのと、恋愛の様が結構普通だったというのとで、あんまり面白くなかった。特に何か刺激があるわけでもなく、何か最後にあるかと思ったら、予想通りのオチで終わってしまった。

恋愛好きなら多分、楽しめると思う。

僕はあんまり恋愛ものに興味がないので、まあ、こんな感想になってしまう。

床屋へゆく

1000円カットで髪を切った。

昔は、納得のいかない髪型にされてしまうことが多かった気がする。そして、それが結構な悩みだった気がする。

でも、最近はそんなことも無くなった。注文の仕方を心得たからか、1000円カットの技術が向上したからか、多分両方だろう。そんなことを思っていたのだが、この前床屋へ行ったら、納得のいかない髪型にされてしまった。久しぶりの煮え切らない感覚を味わった。ヘアスタイルが納得いかないと、鏡を見るたびに、その怒りが回復してくるから、厄介である。

だから、今回1000円カットへゆくのは、妙にドキドキした。店を変えようかと思いもしたが、たった一回の失敗でそれでは、何だか理不尽な気がしたので、同じ店へ。

結果、綺麗な髪型になった。僕としては、ちびまる子ちゃんみたいなおかっぱにならなければそれでいいのだ。あたしんちでユズヒコが同じようにおかっぱに髪を切られてしまうエピソードがあるのだが、髪切られてる間、ずっとそれを思い出してた。そんで、何故か笑いそうになった。自分が今まさにそうなってしまうかもしれないというのに。

でも、まあ、ほっとした。これで鏡を見るたびに起こる不快な気分ともおさらばだ。