宇宙のことが心配です

好きに色んなことを書きます。日記が中心です。本、映画、漫画、アニメなどで暇を潰す事が多いので、その手の感想も書くかもしれません。

暇で苦しい

 現在、精神を病んで休職状態だ。働いていないから暇な時間がたくさんある。本来なら楽しいことのはずだ。あれをやろう、これをやろうというのがあふれるのがおそらく健康な人間の姿だろう。でも、実際はその反対でかなり苦しい。何かをしたいのだが、何をしたいのかが分からない。ただ何かをしなくちゃという気持ちだけがある。内容のない空虚な焦りだ。一応、本を読むことを生活の中心としているが、楽しくて読んでいるというより時間を埋めるために読んでいるのが本当だ。じゃあ何もしなければいいと思うが、それが苦しくてできない。暇な時間があってただ無為に時間が過ぎていくことに耐えられない。もういっそ眠ってしまいたいと思うが生活サイクルを保つためには日中起きていなくてはいけない。こんな状態で何かをしても全て依存になってしまう。何かをしたいという気持ちが立ち上がらない限り、苦痛をごまかす為に行動することになってしまう。でもどうしたらいいかわからない。何もしないことは苦しくてできない。

 暇な時間から逃れたくて仕事を始めたいなどと考えるときもある。しかしそんな理由で仕事をしてもうまくいくはずがない。仕事を始めてもその新しい生活の中で結局苦痛を感じ出すに決まっている。この空いた時間を機に、自分に適した仕事は何だろうかなどとよく考えているが、こんな精神状態で出す答えを信用してもいいだろうかと疑問がわいてくる。こういう閉鎖的な状態だと一人であれこれと考え過ぎてしまう傾向もある。自分の気持ちなど分からないまま、苦痛の中で新しい理論をひねりだして、それを強迫的に信じようとする傾向もある。結局、病んでいる心で考える事は歪んでいるようなのだ。だから自分で自分の考えに慎重になる。そして慎重になりすぎて自分がまた分からなくなる。

 しかしそれでは仕事選びをするために精神を健康な状態にする必要があるということになる。今の休職状態でそんなことが可能だろうか。精神の健康といってもそれがどういうことなのかわかりもしないのに。一応、社交に対する恐怖がわたしの症状ということになっているが、わたしにはそれだけではないような予感がある。問題はもっと根本的なところにあるような気がする。例えば、上で書いたような暇な時間で苦しいというようなことだったり、自分で自分の気持ちがよく分からなくなったりするというようなことだったり、恐怖を中々乗り越えられない傾向があることなどだ。そこまでいくとそれはもはや誰にでもあてはまることだと思う。でもわたしにはそんな気がする。わたしは誰もが勇気で乗り越えていることを乗り越えられなくて、いつまでも同じ場所に留まっているような気がする。

 喫茶店で「暇で苦しい」と検索をかけたら同じ悩みを持っている人が知恵袋で相談をかけていた。その答えの中に、それは自分の時間を生きることができていないからというものがあった。その答えはもっともなように思えた。さらに長期的な計画を立てたりすれば今この瞬間がどういう時間なのかが見えているから暇でも苦しくならないとも書いていた。よく自己啓発の本を読むと書いてあることではあるが、改めてなるほどと思った。自己啓発本を読んでいくら分かったと思っても、実行に移さなければ結局分かっていないのと同じことである。わたしはやっぱり知ってはいても分かってはいなかったようだ。そして今回もどうせそうなるのだろう。

 長期的な計画を立てるというのは、つまり死ぬ直前くらいに自分がどうありたいかということを考えるということだろう。それが定まれば今が長い時間軸のどこにあるかが意識されて楽になるのだろう。マラソンをしながら自分の中でそういう長期的な目標がたてられるか考えてみた。しかし無理だった。自分はたぶんこういうことについて何度も考えてきて、そしてその度に諦めてきたのだと感じた。自分というものを主張し始めた瞬間、他人はそれを否定しにかかるだろう。わたしは自分の目標を考えたその先にそのことが浮かんできて、自分がそれに耐えられないような気がした。そしてわたしは自分というものにふたがされているのを感じた。そのふたは固くて、わたしはわたしが考えていることが結局分からなかった。わたしには長期的な目標を立てることは無理なようだった。全てが他人というもの世間というものに否定されてしまい、わたしはそれに耐えられないような気がした。わたしはあらゆるものに振り回されて生きるしかないようだった。それは刹那的で反応的な生き方だ。意志の欠如した生き方だ。

 しかし暇で苦しいということが何故なのかは少なくとも分かった気がする。それだけでも自分の進むべき方角が示されたようで少し楽になった。それにマラソンからの帰り道である考えが浮かんできた。わたしは、何もしない時間を無駄に感じてしまっているが、別にそんなことはないのかもしれないと思った。それは苦しいことがあってもそれがどこかで活きてくるから無駄じゃないという話ではない。その考えだと苦痛な時間は報われない限り肯定することができない。わたしが思ったのは人生が無駄じゃないのであればどんな時間も無駄ではないのではないかということだ。わたしは現状一つ目の仕事に失敗してこうして休職している。休職している間に考えていることは病的でまともなものじゃないし、本は読んでいるけど楽しくない。回復の方向性も見えていず、勉強もしていないし、人と喋ることも苦しい。何一つ将来のためになることはできていない。寧ろ休んでいる期間が長くなることで不利になっていくばかりだ。でもそれを無駄だと考えるということは、生きる事そのものを無駄と考えることになるような気がする。生きる事が無駄ではないのなら、こうして何もせずにいることだって無駄にはならないはずである。例え、引きこもりで何もできなくなっても、無駄ではないのだ。そんな考えが降ってきて、また少し楽になった。