本を読む姿勢について
今日は休み。
良く晴れた日。
午前中は本を読んでいた。
この頃、ふと思ったことがきっかけで、本を読む姿勢にも変化が出てきたと思う。
その、思ったことというのは、つまり、
「短時間でいろんなことを百個分かるよりも、じっくり時間をかけて、本質的なことを一個分かる方が、おそらく結果的には早い」ということだ。
これについて更に自分なりに考えてみた結果、これはつまり、受動的な姿勢と主体的な姿勢の違いについて言っているんじゃないかと気付いた。
短時間であれもこれもと行動したりする時は大体、焦りがあり、受動的な姿勢になっていて、例えば本を読んでるとしたら、その本の内容がただ頭に流れてくるだけという状態になりがちだ。
反対に、じっくり一つに時間をかけようとする時は、自分からそれについて働きかける主体性が発動しているように思う。
結局、何をするにしても、「ただそれが自分の中に流れ込んでくるだけでは本当の意味で面白いとは言えないのではないか?」というのが最近の感慨だ。
しかし、お笑いとか音楽とか映画とか小説とか、そういった娯楽というのは、どっちかというと、「はい。面白いものを見せて下さい・・・。うーん。あんまりだなあ」とかそういう感じになりやすい。
つまり、もっぱら受動的な態度に陥りやすい。
そうすると結局、次第に飽きてきたり、最近はあれもあんまり面白くないなあとか思ったりすることになる。
思うに、趣味を持っても面白くないという考えを持っている人は、この辺の誤解がある。
つまり、そういう人は、面白さについて「ただ受動的に何かを享受するということだ」という考え方がある。
しかし、何か趣味を持っている人と言うのはおそらく、面白さについて「何かあるものを受け取り、かつそれに主体的に働きかけるということから面白さは生まれる」という考えがあるのではと思う。
そう考えると結局、趣味を持って何が面白いのか分からないというのは、要するに、主体性を出すのが面倒くさいということでもある気がする。
自分だけかもしれないが、最近は、受動的になりやすいと思う。
つまり、何か色んなことをやりはするが、大して自分の身にもならないみたいなことが多い気がする。
あれもこれもと焦るのは容易いが、一個のことをじっくりやったりすることは難しい。
しかしおそらく理論的には、一個のことに時間をかけるような主体性がないと、何をやったところでつまらないだろう。