癇癪は腹痛みたいなものだということ
癇癪が酷くて困っている。
こういう気質は昔からなのだが、今も直らないところを見ると、これからも直らないだろう。
子供なら泣き叫んでもまだ大丈夫だが、大人になると、そうもいってられないので、苛々を抱える羽目になる。それで、一々、苛立つたびに、それが冷めるまで、耐えなくてはいけなくなる。
問題は、こういう苛立ちが、歪んだ理屈を捻り出すことだ。憎しみとか苛立ちとかが生む考え方など、ろくなもんじゃない。そういう考え方を抑えるというのは難しいが、しかし歪んだ考え方をすると、それにより益々、生きることが苦しくなってしまう。それでは、仕方がない。
そこで、僕が思うのは、やはり、こういった苛立ちや癇癪は、もう、腹痛のように、自分の病気だと思って、耐えるしかないということだ。
悲しみや喜びは自然に去る。しかし絶望や憎しは中々、去らない。それは、憎しみにより色んなことを考えてしまうからだ。考えれば考えるほど、憎しみの中にとどまってしまう。
しかし、憎しみも、腹痛のようなものと悟って、耐えてゆけば、苦しいは苦しいにしても、少なくとも、苦しみを更に酷くはしないようにできるだろう。
なんか、そんなことを、ぼんやりと考えた。