宇宙のことが心配です

好きに色んなことを書きます。日記が中心です。本、映画、漫画、アニメなどで暇を潰す事が多いので、その手の感想も書くかもしれません。

映画「レイジング・ブル」を見て

 

レイジング・ブル (字幕版)

レイジング・ブル (字幕版)

  • キャシー・モリアーティ
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<あらすじ>

ミドル級ボクサーが、ボクシング界の王座を目指し奮闘する。しかし、彼は自らの猜疑心によって、やがてリング外での人生を狂わされていく。

 

<感想>

あらすじに、主人公の猜疑心とあるが、これが中々、凄まじく描かれている。

ここでの猜疑心というのは、恋人の浮気を想うと、自分でもどうしようもないほど、疑いが止まらなくなってしまうというもので、この心理自体は、いたってシンプルなものだ。だが、この映画の後ろの方では、この猜疑心がひたすら描かれる。ここまでの猜疑心となると、もはや共感はできない。主人公の性格の問題に、ただ呆れたり、感心したりするばかりだ。

しかしその問題も、最後のシーンで方がつく。このボクシングシーンは、それまでの主人公の経緯を見てきた者としては、感動した。僕も、主人公とは違うが、自分の性格の問題にひどく苦しんだことがあるから、その意味で共感できる。

解説によると、最後のボクシングシーンは、贖罪を意味しているようだ。この映画は、ボクシングは出てくるものの、根本は、宗教的な映画ということだ。言われてみれば、確かに、という感じだ。

ただ、最後のあのシーンで、贖罪が果たされるというある種の宗教的境地は、映画としては面白くて、感動するし、納得もできるのだが、少し引っ掛かるものもある。主人公は、贖罪により、自分の性格の問題にちゃんとケリをつけられたとも思えないし、そのように色々と実用的な見方をこの映画に適用してしまうと、どうにも煮え切らない気持ちが残る。多分これは、僕が宗教的な常識に、無縁であることが大きいのだろう。あるいは、映画を見て、実用的なものを得ようとするのが、そもそもの勘違いということだろう。

しかし、それはそれとして、この映画は面白かった。この映画の感動は、爽やかなものじゃないけど、多分、暗いところに生きている捻くれた人間にとっては、なおさら面白いんじゃないだろうか。