宇宙のことが心配です

好きに色んなことを書きます。日記が中心です。本、映画、漫画、アニメなどで暇を潰す事が多いので、その手の感想も書くかもしれません。

公案<実践的禅入門>

いつも1時くらいに布団に入るのだが、起きるのが遅いのもあって、なかなか眠れない。たぶん、3時くらいまで意識はあると思う。体をじっとさせることができない性質だから、ベッドの上で常に体をゴロゴロさせている。眠れないと何だか苦しい。眠れないでいる間、色々なことを考えたりもするが、たいていは何も考えず、無心でいる。いつも夜の10時くらいになぜかぼーっとして眠くなるのだが、こういうときは明かりが付いていてもお構いなしで、すぐに眠りにつける。それなのに肝心の眠るころになると目が覚めてくる。眠るべきでないときに眠くなり、眠りたいときに眠れないとは・・・。人間とはうまくいかないものだと思う。

 

最近、仏教に興味があって、関連の本を読んでいる。

それで、読んだのは、<公案>という禅の本。著者は秋月龍珉という方。

 

仏教というのは比較的、知的な宗教と言われているらしい。仏教を哲学と見る人もいるくらいだから、確かにそうだろう。しかし、まあ、いくつか読書した結果、実際はやっぱり宗教であるらしい。だから、いくら知的といっても、頭や言葉ですっきりと理解できるものではないということだ。(でも、だとするなら、一体、知的な宗教というのはどうゆうことなんだろうか?)

実際、この本を読んでみてもそれは分かった。僕がこの本に興味を持ったのは、正直言えば、禅の公案というものに、何か自分をはっとさせるような思想や哲学があるではないかとう期待からだった。でも、読んでみて、それは見当違いだというのが分かった。結局、禅というのは宗教で、公案というのも別に思想などのように頭で理解できるようなものではなかった。実際、この本の中には33の公案と解説が載っているのだが、ほとんど理解できなかった。言葉が難しいというのもあるが、言葉が分かってもたぶん、分からなかったと思う。

どうやらいくつか本を読んだ結果、宗教でいう悟りというのは、理解して得るものとは違い、自分で体感しなければわからないことらしい。だから、実は、悟りというのは万人に普遍の境地というわけではなく、人それぞれに達するものという認識の方が正しいようだ。また、僕はよくこう思ってしまうのだが、悟りイコール聖人みたいな発想も違うようだ。別に悟りを得たからといって、性欲が克服できるとか、超人になるわけでもないようだ。まあ、それは考えてみれば当たり前である。感情だって、肉体の一部みたいなものなんだから、それをなくしたりすることなどできるはずがない。じゃあ、悟りの境地って、どういうものなのか?考えてみるが、それは分からない。考えてもわからない境地のことだとしか言えないわけである。まあ、性欲とか色々の苦しみというのは襲ってくるけど、それでも平然としているみたいな感じだろうか?いや、それも思い込みかもしれない。もっと違った境地なのかもしれない。

で、もし宗教体験が理解できるものではないのなら、宗教関連の本が難解になるのは、当然のことである。体感しなければわからないということは、本来、言葉では表現できないというだからである。いくつか関連の本を読んでみて、それらがみんな難解だったのも、仕方がないことに思える。いや、むしろ、宗教のことを解説するのに、こちらがすっきりと理解できてしまえるようでは、逆に怪しいということになる。本屋に行くと、結構、分かりやすさを売りにしている本もあるが、こういうのは怪しいわけである。実際、禅の公案などの解説がネットに載っていたりするが、なんだか、ただの道徳論になってしまっていたり、分かりやすい言葉で解説されていたりする。こういうのを見ると、なんか、違うような気がしてしまう。すっきり理解できるようでは、ただのとんちクイズになってしまうのではないか。

だが、実際、公案に何かわかりやすい解説が欲しいのも事実である。僕にしたって、手っ取り早く、禅が知りたくてこの本を読んでいるわけである。しかし、最近、仏教関連の本を読むようになってから、こういうなんでもいいから自分の糧にしないと気が済まないというような衝動には、自分でも呆れている。何だか、合理的であることから離れられないのが、自分の罪のような感じがする。何でも意味がないと我慢ができないこの感じがあるかぎり、自分には救いがないような気がする。

で、この本には、<最近の禅は親切に教えすぎる>的なことが書いてある。それが、どうやら時代の流れらしい。実際の禅というのは、どうも修行の感じが強いみたいだ。万人に開かれるものというよりも、やるきがあり、才能のあるものだけが高みにのぼっていくような、そういう世界のようだ。僕は、この本を読んでいて、落語界をイメージした。どこかの一門に弟子入りして、師匠に教えをこいたり、そんな感じ。公案というのも師匠に与えられて、何年も考えて、それをものにするらしい。まるで、噺家が自分の十八番を持つかのようではないか。

結局、この本を読んで、言葉も難しいし、言ってる内容も難しいで、たいして理解はできなかったのだが、わかったこともあって、それだけでも満足した。宗教の話が難しいのは、どうも仕方がないことのようだ。むしろ、すっきり理解できては本物ではないということか。僕は、正直、禅の本はもうやめようかと思う。これ以上、何かが分かるきがしないから。まあ、こういう世界があるということが知れただけでよかったかなという感じです。